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くされ作家のクズ箱 その41 溜飲を下げる

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 くされ作家は、SM小説に魅せられて自分なりの作品づくりに没頭している男である。

 たとえば、「水戸黄門」「半沢直樹」「必殺シリーズ」「仮面ライダーシリーズ」「戦隊ヒーローもの」など、痛快な娯楽、と呼ばれるエンタメ分野がある。エンタメの裾野は広く、娯楽に徹したものから、世相を映し出して批判するもの、問題を提起するもの、考えさせるもの、深く心に残るものなどまでさまざまで、おそらくこういう点についてはハリウッド映画またはアカデミー賞のノミネート作品などに象徴されるほど、振れ幅は大きい。
 フィクションの創作側からすれば「これは完全な娯楽として作りました。他意はありません」と言える点がミソだ。最初から「批判をしたくて作った」「社会に一石を投じたい」といった意図があったとしても、それを表に出さずに娯楽化できればなおいい。
 なぜ意図を表に出さず、娯楽性を前面に出すのかといえば、その方がより多くの人に届く可能性があるからだ。
 Aを批判する、Aに反対する意図があるなら、Aを肯定し賛同する人たちは最初から消費しない。
 とくに批判や問題提起は、それを意識していない人に消費してもらわなければ意図を達成できない。批判、問題提起に同調している人たちはすでにわかっているので、いまさら娯楽をたっぷりまぶされていても、それほど楽しくはないのである。
 どんなアンケートでも「どちらかといえばA」とか「よくわからない」といったグレーの層があり、この人たちに少しでもAについてわかってもらうためには、娯楽性でくるむことはとても役に立つ。
 よくオブラートを喩えに出すのだが、私はむしろ糖分と色味だと思っている。
 同じように体にいい食べ物があったとしても、より糖分の多い方、より食欲をそそる色味の方がより多く消費されるだろう。
 洋食の店で、カレーとライスが別皿のときなどに、ライスの上になにかのせていることがある。レーズンは明らかに甘みを連想させる。チーズは濃厚さやマイルド感を連想させる。そしてどちらも白いご飯(糖質がある)の上に、色を添える。
 レーズンやチーズがあった方が、ないよりおいしいのかどうかは、実はご飯の甘み、カレーの味に左右されてしまう。それでも、見た目として「おいしそう」とか「食べたい」をさらに後押しする。同時に「うちの店ではこのスタイル」というイメージを打ち出せる。
 娯楽にはこのように、本質とは違う意味のさまざまな糖分、色味の工夫が施されるので、主義主張を気にせず、「おいしそう」「食べたい」という意思を強化させる。
 娯楽性がきちんとあれば、最後まで食べてくれる可能性は高まり、食べたあとの満足感につながる。その結果「また来たい見たい読みたい」と記憶に残ってくれるかもしれない。リピーターにつながるわけだ。
 落語の中には、説法、説話が元になっているものもある。たとえば僧侶が仏教とか道徳について人々に普及させたいと思っても、グレーの層には伝わらない。そこで、おもしろい話(おっかない話も含む)に仕立てることで、娯楽性を高めて浸透させていく。
 悪いことはできない、まじめに仕事をした方がいい、高望みの否定、現状の肯定などの道徳、倫理、因果の思想などなどを、おもしろい話に仕立てる。ハリウッドは夢や行動力を称賛した娯楽作品が多いのとは対象的だ。
 こうした娯楽の中でも子供向けは、より強力だ。子供が気付けば、それは親に伝わる。そして当人が成長すれば、その考え方を基盤として生きる。世の中を変える原動力となるかもしれない。または、日本的には世の中を変えないための原動力となるかもしれない。
 捻れていくのは、人間のやることだから仕方がない。逆賊の悪意を描いた作品も、いつしか体制側を批判する意図があるぞ、といった解釈もされる。痛快な極悪人、愉快な殺人者も登場するのが娯楽だ。
 娯楽性を高めると「こういう話で溜飲を下げているなんて」といった批判も呼ぶ。「おもしろかった」「スカッとした」と喜ぶ人たちに、冷や水を浴びせるのだ。「あんたたちはこんな娯楽で喜んでるけど、実はこの話には……」といった種明かしのようなものをしはじめる人たちもいる。
 その真偽はともかく、実は「溜飲を下げている人を批判する」行為そのものは、批判している人たちの溜飲を下げる行為でもある。
 溜飲の下げ合いである。
 娯楽をそのまま楽しんだ人も、ただ楽しんでいるだけで隠された意図に気付いていないと批判する人も、どちらも溜飲を下げることになる。
 だけど、娯楽は、溜飲を下げるためだけに存在するのではない。溜飲は、下げたい人が下げる行為だ。誰かによってさせられるものではない。
「あー、すっきりした!」と言える行為は、自分から求めて得られる行為だ。たまに掃除をしたりゴミを出すだけでも得られる。ただし、行為をする当人が意識しなければならない。
 こう言うと「そんなはずはない。私はまさかそういうドラマを観て、自分がスカッとするとは思わなかったけど、スカッとした」と言う人もいる。だけど、実際はドラマを観ただけでスカッとしているのではない。
 掃除だってやらされてイヤイヤやっていたら、なかなかスカッとはしない。「よし、やろう」と決めて、どこまでやるかも自分の裁量で決めて、ある程度のレベルまでやったら「すっきりした」と感じる。
 ドラマなどの娯楽も同じ。「あのドラマ、スカッとするよね」といった評判だったり、ウワサなどが広まり、潜在的に「スカッとしてみたい」と思う人をひきつける。あるいは予告編で、そのような人たちに興味を持たせるようなセリフなどが流れる。
「倍返し」といった決め台詞とか、いつも温厚な役の多い役者が、めちゃくちゃ怒っている表情などで、こうした「溜飲を下げたい」人たちを引きつける。
 もちろん、そういうものに無関心な人も多いので、まったく見ない人たちもいる。
 厄介なのは、見ていない人の中で「私はこのドラマは観ていませんし、金輪際、観る気もありません」と宣言して溜飲を下げるタイプもいること。これも娯楽の一つだ。
 娯楽性を批判する人、観ないことを宣言する人、どちらも溜飲を下げている。
 娯楽というものは、社会にとって触媒のように作用する。慰めたり、鎮めたり、考えさせたり、楽しい気分にさせたり、笑わせたりする。泣かせたり憤らせたりもする。主に情報面(こういうことをすれば、ああなるかも)と、感情面(喜怒哀楽)に作用する。
 ジェットコースターから得られる娯楽に政治性はないが、そこにジェットコースターが存在する点では政治性もあり得る。みなさんがジェットコースターで楽しむ娯楽と、ジェットコースター作りに命を燃やす親子を描くドラマを観るのとは、かなり違うが、どちらも娯楽は娯楽だ。
 同じ娯楽でも、前者(ジェットコースターに乗る)で溜飲を下げる人はいないかもしれないけど、後者(ジェットコースターをテーマとしたドラマ)ではあり得る。
 どちらも娯楽なのだから、楽しめばいい。または自分は楽しまないと宣言してもいい。こんなの娯楽じゃない、と批判してもいい。
 では、娯楽を提供する側はどうなのだろう。たとえばこのコラム。私はこれを書くことで溜飲を下げているのだろうか? おそらく、そういうことはないと思っている。でも、たぶん下げている。このコラムで溜飲を下げたければ、これほどの文字数はいらなかったに違いないが、それはゆっくりと、喉元を落ちて行く感触を味わいたいがため、かもしれない。
 
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くされ作家のクズ箱 その40 刹那のドラマ

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 くされ作家は、SM小説に魅せられて自分なりの作品づくりに没頭している男である。

 ドラマとは、いまでは芝居全般のこととしてよく使われているが、語源はギリシャ語で行動を意味しているという。そのギリシャでは、芝居は喜劇、悲劇、それ以外のドラマと三種類で位置づけられていたらしい。喜劇でも悲劇でもない芝居は、芝居の主催者と演者、観客の変化によって生まれた。
 喜劇、悲劇を主催して演じていたのはいわば上流階級でありギリシャ時代の「市民」である。
 なんで唐突にこんなことを言い出したかといえば、それは時間の問題があるからだ。
 私の描くSM小説は、ドラマとして見れば起承転結が最初からわかっていて、最後にはある意味の死が訪れる。官能小説にもおそらく同じような傾向があるに違いないけど、セックスの終わりは死だ。
 ドラマは死に向う行動である。
 いわば死の間際に見るという走馬灯のような部分がドラマになる。
 ドラマを最初に楽しんだのが時間的な余裕のある裕福な人たちだったことはとても重要だ。
 刹那的な楽しみではなく、ある程度の時間を消費したい欲求がそこにはある。いわばゆっくりと死の間際の走馬灯を眺めたいのだ。
 この点、SM小説ほど刹那を時間的にゆっくりと引き伸ばしている作品はないかもしれない。セックスだけなら行為によって終る(やりました、いきました、天国です)ところを、SM小説はさまざまな手順(ロールプレイ)を経るからだ。刹那を引き伸ばす行為としてのSMは簡単には終らないのだ。行動、行動、行動……。
 しかも苦痛や我慢や屈辱の上に至高の悦楽に至るわけで、あまりにも理想的なドラマだとも言えてしまう。
 ギリシャの上流階級ではじまった観劇はその後、さらに下層の人たちの間に広がっていき、王族、英雄や伝説上の神々を取り上げるような喜劇、悲劇ではなく、等身大の人間を描くようになる。自分たちの行動を描く。こうして、ドラマは芝居全般を指すのに便利な言葉として定着したようだ。
 時間を消費する人が増え、消費時間と費用対効果を考えるようになっていくと、ドラマも産業化していき工芸化、工業化されていく。本、演芸、演劇、映画、テレビ、ラジオ、ハリウッド、ディズニー、スタジオジブリ、多くのゲーム制作会社などはその発展系だろう。
 こうして私たちはドラマという普遍的なツールを自分のこととして生きることになる。
 そもそも誰かの人生(その行動。生まれた、生きた、死んだ)がドラマになるので、すべての人が共通項を持っているし、時間軸も同じ。
 おまけに、ドラマは架空の人生も扱え、そこでは私たちとは違う時間となっているかもしれない(たとえば不死の主人公とか)。
 ドラマは行動を描くことで、同じように行動を追跡するドキュメンタリーとの違いは、時系列や偽装(フェイク)の有無となる。
 ところが、作り物ではないはずのドキュメンタリーも作品となったとたん、作為からは逃れられない。つまりドラマとして消費されてしまう。
 ドキュメンタリーで起こる裏切りは、実際に登場している人が裏切ることで生じるのだが、ドラマは行動とはいえ芝居なので、予め裏切りを計画して織り込んでおくことができる。また、時間軸も自由に変化させることができる。ドキュメンタリーではこれが必ずしも予定できないため、時間がブレる。意外性よりもこの時間のブレ、揺らぎがむしろドラマらしさを高めていくのだ。
 史実としての赤穂事件は、旧暦の12月に起きているのだが、これは新歴では1月である。雪は前日に降って、当日は快晴。このタイミングは積もった雪の消音効果および雪によって出歩く人が極端に減るといった効果も狙ったものだろう。
 だが、ドラマとしては雪は降っていた方がよくないか? 少なくとも突入直前までは降っていたことにしたい。カッコいいから。
 また快晴になっても雪は溶けずに残っていてほしい。べちゃべちゃぐちゃぐちゃの地面ではかっこ悪い……。などなど。
 こうしてドラマは観る者、見せる者の気持ちによって事実からは離れていく。
 たとえば病室。果物カゴがあって、誰かがリンゴをむく。ドラマではよくある。しかし現実はどうだろう。誰も果物など見舞いに持ってこない。新聞や雑誌がそのあたりに散らかり、ゴミ箱が鼻をかんだティッシュやスナック菓子の袋であふれているかもしれないが、それを描くとしたら、そこに意図が含まれていく。
 ドラマはどこの時間を引き延ばし、どこを省略するか、どこを描き、どこを描かないか。そこに意図(演出)が生じる。
 だからたとえドキュメンタリーであっても、作品である限り演出が存在する。回想シーンのように、当人たちにもう一度、やってもらうことさえあるかもしれない。なにも起きなければ、起こるまで撮影し続けるかもしれない(最後には死が必ず来る)。
 これを批判し否定することは簡単だが、冒頭に書いたように私たちはドラマを消費し、ドラマと共に生きてきてしまったのだから、純粋に監視カメラのようなドキュメントは不可能なのだ。
「これは監視カメラの映像です」とニュースに流れるときでさえ、演出されてしまう。早回し、カット、クローズアップ、露出を変更するなど「見やすいように」演出されてしまうのだ。そこに見せる側の意図が入る。
「このあと、どうなったのでしょう、それはCMのあとで!」
 これほどの作為があるだろうか。
 そもそも、私たちは自分で自分を演出して生きている。私たちはドラマと生きているので、「ここでこう言ったらカッコいいな」とか「こういう行動をしたら自分らしさがより出るかも」と自分で演出して日常を行動していたとしても不思議ではない。
 おまけに、自分の演出が不発だったりうまくできなかったことを後悔しながら生きている人も珍しくない。
「これはドラマじゃないんだ!」というセリフそのものがドラマである。自覚しているかしていないかの違いでしかない。
 その意味で、刹那を生きている私たちが、これからどのようなドラマを生きるのか。どのような時間軸で語るのか。たとえば自粛していた空白期間をどう描くのか。語るのか。
 自分自身のことも含めて、とても興味深い。

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くされ作家のクズ箱 その39 短編の誘惑

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 くされ作家は、SM小説に魅せられて自分なりの作品づくりに没頭している男である。

 今年に入って、短い作品を書きたくなってきて、いくつかアイデアをメモしている。これまで短編はほとんど書いていない。短く終ってしまった作品もあるものの、短編を書こうという気はなかった。
 なぜなら、荒縄工房という作品発表の場は「ほぼ毎日更新」であること。長編としてのアイデアがなければ、とても毎日更新はできない。短編はすぐ終るので、つぎつぎとアイデアを生み出さなければならず、おそらくそれでは「ほぼ毎日更新」はムリだ。少なくとも私にはできない。
 第一、短編の構想がまったくわかない。少なくとも荒縄工房をはじめてから、2019年までの8年間は、アイデアは出なかった。
 それがコロナウイルスへの対応が求められるようになって、日常が一変したとき、むしろ長編のアイデアより短編のアイデアばかりが降りてくるようになったのだ。理由はいろいろある。また、荒縄工房では現在「新版」として旧作をリライトして刊行直前版に持って行く連載をはじめていて、これまでに比べるといくつもの新しい長編のアイデアを練る必要を感じなくなっている。
 これは短編でいいのではないか、と思えるようになってきた、と言えるかもしれない。
 では、短編は長編とどう違うのだろう。
 たとえば講談と落語。同じ話芸でもかなり性格が違う。
 講談は、長い話が多い。何話にも分割して語られる。「ちょうどお時間となりました」とか言って、話が盛り上がってきたところで終るのが決まりになっている。それでいて、おもしろく楽しく聞かせてしまう。
 落語はオチ(さげ)があって、そこまで噺を進めることが求められる。語りきることが最初から義務付けられている。長い噺もあるが、それも上演しやすいようにいくつかの小さい噺として完結するように出来ている。圓朝の怪談話など一部には講談と同じスタイルもあるけれども、だ。
 講談が長編で、落語が短編と位置づけることができそうだ。講談のすごさは、長編のぶつ切りではなく、どの場面でも巧みに噺を作ってしまうところ。長い話の一部に過ぎず、大団円といった終わり方ではないのにおもしろい。
 一方、落語はオチ(さげ)の意味が現代では不明なものも多く、そこまでいったからといってこちらのカタルシスはそれほど高いわけではない。ただオチで終ることになっているのでやらないと気持ち悪いだけのことだったりもする。だけど、終るのが惜しいほど楽しかったりもする。「ああ、もうオチになっちゃうなあ」と思ったりもする。
 阿刀田高は、「長編小説が歴史と関わりやすいこととの対比で言えば短編は私たちの会話と関わっている」と「短編小説のレシピ」(P25)で記している。
 その意味では、講談と歴史との関わり、落語と会話との関わりは明白だ。
 講談でも落語とほぼ同じスタイルで語る場面もある。複数の登場人物が出てくる物語を一人語りする都合上、会話表現で話を進めていく点では講談も落語も同じ。
 ただ、落語と違うのは、講談では背景や情景などのいわば「地」の語りをより詳しくできること。そうでなければ会話(芝居)部分が成り立たない。
 落語は思い切った省略が可能で、少し落語を聞いたことのある人にとっては、背景の説明、登場人物の説明などはほとんど必要ない。いきなり「やい、八、八公、起きてるか」と語り出し、「うるせえな、また熊の野郎か」と受けて話をはじめてしまってもいい。
 講談ではいま登場した人物がどこの誰で、どういう人かを説明しなくてはならないし、この説明をいかに聞かせるかも技術になる。
 長編小説では、この講談のように「その人間は何者か」とか「その場所はどういうところか」とか「その事件はどんな意味があるのか」といったことまで、詳しく書き込むことができるし、それがなければ読む側もあまり満足できないに違いない。
 一方、短編はもっとシンプルに話を構成することができる。その代わり「短いぶんだけ精緻であることが望まれる」(同・P24)。
 私はこれまで、この精緻さや技巧にはあまり近づかないようにしてきた。得意じゃないと思ってきたからだ。
 しかし、多彩なアイデアとストーリーを今後も長編のみに注ぎ込むことは、むしろ考えにくくなってきた。最大の理由は「読み手」への配慮である。
 この時代に消費するエンタメとして、優れた長編小説が君臨することはとてもいいことだし、私も読む側として長編を楽しむことが多いのだが、その一方、短編の魅力も捨てがたい。
 先日、「物語の物語 葛藤の物語」でも取り上げたが、たとえばレイモンド・カーヴァーの短編。その魅力には遠く及ばないとしても、短編には可能性が無限にある。読む側も書く側も試すことができる。挑戦できる。
 今後の荒縄工房では長編ばかりだと「どれから読んでいいのか」となりやすい。お試しとしての短編がたくさんあってもいいはずだろう。
 そして私自身、学生時代に最初に公称十万部発行の商業誌に掲載されたのはショート・ショートだった。その後も短編でいくらか賞金を稼いだこともあった。ただ長編が書きたい一心だったので、その後はほとんど書いてこなかったのだった。
 得意ではないけども、短編を書いておきたい。
 というわけで、現在連載中の書き下ろし「許諾ください」の完結後は、短編の連載も視野に入れたいと思っている。

(協力:エピキュリアン リップエキスパンダー

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被虐のマゾ女優 藍川美夏調教記録

湯けむり天獄~縄情の宿~12 天縄鈴鳴 編 山井すず

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亜由美のその後を追う「外伝」。亜由美が自ら語るパルダ王国へ性奴隷として留学させられた日々。拷問調教での傷を癒すため貨物船に乗せられ、種付けされながら王国へ。そこで待ち受けていたものは……。連載時にはなかったエンディング。



★『亜由美 降臨編』★
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亜由美シリーズ完結編。『一部~三部』『灼熱編』を経た亜由美が帰国。武器を身につけた彼女の復讐がはじまる。『安里咲1、2』の後日談と一体化したストーリーは最後まで目を離すことができない展開です。亜由美と安里咲の有終の美をお楽しみください。


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くされ作家のクズ箱 その38 書くべきことの危うさ

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 くされ作家は、SM小説に魅せられて自分なりの作品づくりに没頭している男である。

 なんだかんだ9年続けて来た荒縄工房でのSM小説執筆活動。当初10年やる計画で、残りは1年。その先のことは誰にもわからない。
 だいたい70を超える作品を書いてきた。そして何度も同じことが起きてきた。
「おや、一行も進まないぞ」
 筆が止まる。なにも浮かばない。思いつかない。出てこない。
 だいたい毎日、1話。2500文字程度。それが止まる。時間が解決するわけではない。
 解決策は1つしかない。素直なアイデア。
 アイデアには2つあって、素直なやつと、そうじゃないやつ。
 素直なアイデアは私を高揚させ物語を前に進ませ、結果的に物語をよりよくする。たぶん、よりよくなっているはず。だって素直なアイデアだから。
 そうじゃないアイデアは、自分で書きたいものじゃなく、なにかしらの力や欲求によって「書かされているもの」なのだ。
 たとえば、「この作品では『これを書くべき』」と決めつけたときに、素直なアイデアは引っ込み、そうじゃないヤツが現われる。
 そして先に進めなくなる。
 素直じゃないヤツを捨てて、素直なアイデアに戻るのは勇気がいる。なぜなら、素直な方向へ進むと、書くべきことが書けなくなるからだ。
 書くべきことは書かない。こんな基本的な創作技術をときどき忘れてしまうのは、私が人間だからだろう。人間は忘れ、勘違いし、ミスをする。
 作品をつくるときには、日々、ミスや勘違いの連続だ。右に行くべきところを左に行く。止まるべきところを忘れて行きすぎる。ナビもなく、うろ覚えの道をはじめて進んでいくようなもの。しかも目的地も明確ではない。「たぶん、こういう場所に行き着くはず」でありながら、執筆しながらその場所を探っていく。
 その中で、頼れるものが最初からなかったり、見失ったとき、「書くべきこと」に頼ってしまうことがある。
 書くべきことは書かないのに──。
 書くべきことを書くのは論文や主張といった役に立つ文章のことで、小説の「小」はそういった書くべきことでいっぱいの文章とは違う角度を目指す意味がある。
 あてもなく(だいたい「こんな感じ」といったあてはある)、ただドライブしている私なので、宅配便や路線バスを運転しているのとはまるで違う。
 小説で書くべきことを書きはじめることは、極めて危うい。というのも、論文と違い、ほぼすべてを自分の頭の中にある曖昧模糊とした「思い」や「感覚」で書いているのに、根拠や出典の必要な論文のような「書くべきこと」を入れてしまうと、もはや自分の中の大事なシグナルが見えなくなり、結果的に、身動きができなくなってしまう。
 一方、素直なアイデアは、書くべきこととは無関係である。五歳児のように無心にクレヨンで絵を描き「これ、なに?」と聞くと「空だよ」とか「友だち」とか「お父さん」とか思いもよらない返事を得るのと同じで、素直なアイデアは、主観的で自分の中にあるもので、他者とは簡単にはわかり合えない「何か」なのだ。
 論文など書くべきことで占められた文章は、基本的には主観的にコントロールされつつ、同時に客観的にほぼ同じように理解されるように執筆する。
 小説は違う。主観的にコントロールするのは当然だが、他者との理解については限定的で、極端な場合は誰にも理解されない文章になっていったとしても不思議ではない。
 それを恐れてしまうと、素直なアイデアは消えていき、誰かのアイデアに乗っかっただけのわかりやすいがおもしろくない作品になっていく。
 わかりやすくておもしろくない作品よりは、わかりやすくてなおかつおもしろい作品の方がいい。だが、そうではなく、わからないんだけどおもしろい作品もある。私はそういう作品が好きだ。
 残念ながら私にもすべては理解できず、何割かしかわからないけど、とにかくおもしろい、そんな作品が理想だ。
 そのために、書くべきことを書かないよう、気をつけなければならない。
 書けなくなった、進まなくなったときは、それを気付かせてくれる合図なので、素直なアイデアを取り戻し、勇気をもってそこに突き進む。
 それでしか、作品は完成しないような気が私はしている。
 世の中にすばらしい作品はいっぱいある。私だって、すばらしい作品を書きたい。だけど、すばらしくなくても、せめて自分の作品として完成させたい。誰の物でもない、自分の作品でなければ、なぜ書いているのかわからなくなってしまう。
 書くべきことに頼らず、素直なアイデアを取り戻すためには、バカになる必要があって、散歩やスポーツはけっこう、役に立つ。散歩もできればくだらない目的を持ってはじめた方がいい。スポーツは上達や勝敗といった目的がすでにあるので、のめり込めればいい。散歩には目的が判然としないので、うっかりすると「書くべきこと」を考えはじめてしまう。それではダメだ。
 だから散歩はたとえば「路地裏の猫を見つける」とか「昔、よく行った店へ行く」などの、達成できてもできなくてもいいような目的を最初に設定しておいたほうがいい。歩数を稼ぐ、というのもいい。
 こうして考えないようにして数時間過ごすことで、素直なアイデアを思い出したり、気付いたりする。この素直なアイデアは、私たちの根本に近いところに最初からあるものなので、論理的に組み立てたりするものではない。思い出す、気付くだけでいい。
 ある意味、自分が小説を書く根本的な動機に近いアイデアなので、揺るがないしブレもない。
 問題は、それをいいものとして信じることができるかなのだ。

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★小説「亜由美」第一部★
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女子大生となったばかりの亜由美。剛介との出会いから、自らのマゾ願望がいっきに開花。理不尽な辱め、処女喪失、輪姦からはじまってタップリ、被虐を味わうことになります。



★小説『亜由美』第二部★
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メス豚女子大生となった亜由美への本格的な調教が繰り広げられます。大学でも便所でも商店街でも……。苦悶と快楽が彼女の日課になっていきます。


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メス豚女子大生・亜由美の完結編。壮絶な輪姦合宿から同じ大学の女子を巻き込んでの拷問実験へ。連載時にはなかったエンディング。


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くされ作家のクズ箱 その37 正統派への抵抗

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 くされ作家は、SM小説に魅せられて自分なりの作品づくりに没頭している男である。

 正統派、という言葉が好きではない。なにをもってして正統なのか。意見が分かれるときは特にそうだ。SM小説は、小説世界および官能小説世界でもいわば極北な、異端な分野ではないかと最初に出会った1980年代には感じていた。
 そもそも異端なものに正統なものが含まれるわけがないだろう。異端は異端らしく、自由奔放に正統か異端かなど関係なく進んでいっていい。その自由さが私を魅了した。
 なにをやってもいいんだ! いや、模倣はダメだよ、と当時の編集者にしっかり言われたわけだが……。
 模倣からの脱却が次の目標となった。自由にSM世界を書いていい。ただし模倣でないこと。かつては二次創作はほとんどメジャーではなく、オリジナリティが求められていた。
 ところが、諸先輩たちはまったくもって自由闊達に作品を書いておられるので、どこかしら抵触してしまう。抵触はかまわないが自分なりに昇華しなければならない。それが生煮えになっていると下手な真似になってしまう。
『「色ざんげ」が書けなくて』(会田誠)の中に、こんな言葉がある。
──浮世離れしていなければ楽しめないのです。──
 日本の80年代以降のポルノの流れを「超御都合主義的展開」とし、それは「純粋オナニー志向」になっているとする会田氏。
 SM小説はSM世界を描く上で、フォーマットを官能小説や時代小説やそのほかの小説から移してきました。
「官能小説の前にまず小説であること。SM小説の前に小説であること」が求められていた時代があったのです。
 ですが、SM小説の目的は登場する人物をさまざまに責め抜くことにあるので、一般的な官能小説や時代小説からは逸脱します。官能小説のフォーマットは、恋愛小説や青春小説などから性愛部分だけを増幅していく点で逸脱していくのですが、SM小説はその性愛がアブノーマルなのです。
 時代小説は武士や商人の身分と役割がカチッとある中で、欲にかられた人たちと正義を求める人たちが戦ったり、身分ゆえの定めの中で葛藤する話が多いわけですが、そのフォーマットにアブノーマルな欲を注ぎ込んでいくことでSM小説化されていきます。
 SM小説が日本的解釈のサド・マゾというアブノーマル性愛小説として定着したため、ノーマル性愛からアブノーマル性愛まで、「なんでもあり」な世界が築かれていきました。それでも「ただし小説であること」が求められてもいました。
 異常な欲望、一般的ではない欲望を微細に描くことが一つの目的になっていったとき、小説であれ、という主義主張はしだいに後退していきます。
 異常性を際立たせるためには、ノーマルなフォーマットを使った方がいい。読者としてもその方が安心です。内容が異常性愛でなおかつフォーマットがまったく見えないと、シュールな状況となっていき、どちらかといえば純文学に近づいてしまう。
 その意味で、正統派のSM小説とは、まず小説としての体を成すこと。そして官能小説や時代小説のフォーマットを使っていることが求められていたのです。窮屈ですね。
 先の『「色ざんげ」が書けなくて』(会田誠)では、芸術的な作品について、批判的な視点であることはもちろんのこと「確固たる文化的地位に立って安定/安心しないこと」「様々な文化的地盤を等価に観察し、常に疑いの気持ちを持ち続けること」「そういう態度から来る自身の空虚さに耐え、その代償として手に入る、自由やフレキシブルさや実験精神という武器を手放さないこと」などと記しています。
 いわゆる「低俗」なもののよさはサブカル的に評価されていき、現代ではそれもまた芸術的に見ることも可能になってきていますが、それでも、芸術的になるにはこのような条件が存在しているのです。ある意味、現状と戦っていることが求められます。
 エンタメの片隅にあるSM小説は、いくら異端だからといってそこまで芸術性を高めていってもいいのですが、そうなるとマルキ・ド・サドの作品やマゾッホの作品のようになっていくことでしょう。私自身としては、そこまでは求めていなくて、かなりエンタメ寄りの正統性を探ってみたいのです。
 フォーマットに沿って描いてしまうと「自由」を放棄したことになりますし、芸術的というよりは低俗な方向へ振れていくわけです。低俗って言葉に抵抗があるなら工芸的と言ってもいい。
 火鉢に同じ絵を書き続けるのは、アートというよりは工芸(マニファクチュア)です。下絵はアートかもしれないけど、それを商品化する段階で自由は失われます。火鉢という実用的なフォーマットに沿った作品になるからです。
 ですが工芸品やデザインを「低俗」と呼ぶ人はあまりいないので、分野によってはこれはとても優れた文化的な世界と言えます。しかし、私はSM小説の地位向上とか文化的な上質感を求める気もありません。そういう意味の正統派ではありません。
 エンタメ小説の多くがミステリーとかホラーとか時代とかジャンル化されて、ある程度のフォーマットがあり「こう書かなければダメ」といった決まり事まであるのは、いわば芸術的自由や批判性よりも、工芸的な楽しさを選択した結果だと思います。
 芸術にも正統派が存在します。作家たちは自分のオリジナリティを、過去に築かれたフォーマットからの脱却によって発見しなければなりませんが、そこに到達する過程がすべて芸術的だと言えます。
 ゴッホが南フランスへ行く前に描いていた作品は、私たちがゴッホで連想する作品とはまるで違うわけで、暗くてある意味普通の作品(フォーマットからの逸脱が少ない)。でも、オリジナリティは見つけられますので、低俗とは言えませんし工芸的でもありません。その過程から、ゴッホなりの正統派としての道を歩もうとしてきたことがわかります。
 ごちゃごちゃ言ってきましたが、SM小説にとっての正統派とはなんでしょう。
 私はついに現在連載を開始している『タワマン』で、自称・正統派としてのSM小説に取り組んでいます。荒縄工房をはじめて8年が過ぎ、2020年には9年目となります。そのスタートは「Webに適したできるだけ自由な作品」を目指し、タブーを取り払うように夢中で書いてきました。
 そのため、人物描写、背景描写、人間ドラマなどを引っ込めて、場合によってはその主人公がキレイな人なのかそうでもないのかもよくわからないままにあえて放置するなどして、いきなり便器を舐めさせたりする「超御都合主義的展開」で「低俗」な作品づくりをしてきました。残酷で下劣な描写を増やし、「小説であれ」という前提を無視しました。
 Webで発表する作品に「小説であれ」という呪文は関係ないような気がしたのです。
 その後、エロなしのフツー小説、エロのあるフツー小説も書く時期を経て、いまはフツー小説とSM小説の融合期に入っています。
 自分なりにフォーマットの変更を続けてきたわけです。
「亜由美」シリーズや「堕ちる」シリーズ、「美魔女狩り」シリーズ、「お嬢様」シリーズといったフォーマットは、その作品限りで終わらせて、それとは違う新たな作品を生み出そうと書いてきました。
 だから「タワマン」の正統派とは、原点回帰であると同時に、私としてのこれまでの過程から生まれた新たなフォーマットの確立につなげる試みです。そして今回は、官能小説のフォーマットを正面から使い、そこに「あんぷらぐ」のオリジナリティによる逸脱を狙っていこうと考えています。
 官能小説のフォーマットとは、ノーマルな性愛の過程が主軸となります。もちろんSM世界ではありますけども。手順を飛ばさないように慎重に書き進めています。そもそも正統派が嫌いなので、抵抗しながら逸脱を企てていきますが……。
 自分にとっての正統派。その答えが出るのかどうかは未だにわかりません。ひたすら本能の赴くままに書き進めています。
 なお、衝動的にペンネームは「あんぷらぐど」から「ど」を取り去って「あんぷらぐ」となりました。これから新たな作品世界へと突入していきたいのです。
 2020年以降もよろしくお願い申し上げます。

(協力:エピキュリアン 大型バイブ



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週末にマリカとして苦痛を求めてさまようOL。掲示板で出会う相手の要求のままに、激しい苦痛にもだえ苦しむ。その間の記憶は失われ月曜には勤務先に出社する。そこに別のマリカが挑戦してきた……。どちらがホンモノか決着をつけることに。負ければ永久便器となる。



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『インサイドアウト』
『奴隷未満(期間限定Ver)』
『荒縄工房短編集』
『奈々恵の百日(続・許諾ください)
『お嬢様はドM3(完結編 期間限定Ver)』
『新版 共用淫虐妻・千春(期間限定Ver) 』
 随時、短編、コラム。
 妄想絵物語(イラスト・月工仮面さん)など。

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ペンネーム「あんぷらぐ」
1970年代からのSM小説を読み、書き。「仲ゆうじ」などのペンネームで「SMセレクト」などに小説を書かせていただいておりました。
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2019年「あんぷらぐど」表記から「ど」を取って「あんぷらぐ」へ改名。

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