FC2ブログ

くされ作家のクズ箱 その28 なぜ引くような話を書くのか

前回はこちらへ

30051307-400x225.jpg

 あんぷらぐどの作品には、必ずではないもののいわゆる「スカ●ロ」表現がある。それはセリフとして「くそったれ!」と叫んだり「このしょんべたれが!」と怒鳴るといったレベルではない。
 被虐的、倒錯的な快楽のエピソードとしてとても汚い描写があるのだ。
 いわゆる「引くわあー」と言いたくなるかもしれない場面をあえてストレートに描く場合がある。もし私が編集者なら、そこはもっと巧みな言葉の表現をするべきだとアドバイスするに違いない。
 だけど、いまの時代、言葉のチョイスで事態を別の次元にずらしてしまおうという小賢しい技が横溢しすぎているように思う。監督の言葉を選手が間違って解釈して行動をしたと言いたいがために「乖離」などといった表現を使う。
 事象からすれば完全に黒(やっちゃってる)を、法律的な側面を上手に使いつつギリギリのところで黒ではない(かといって白でもない)ものにしてしまおうとする悪しき弁護士的テクニックも多い。
 しかも、それをやっているのは最高学府であったり政府やトップレベルの行政部門だったりする。
 言葉は、黒を白にするためにあるのではない。そしてレトリックは、汚いものをきれいにするためにあるのではない。
 汚いものは汚いものとしての価値がある。それを作品の中に描くと決めたとき、誤解なくそれが汚いことを表現したい。
 アラレちゃんが、棒で突き刺したウ●コを持って走るといった表現もおもしろいが、結果的にそこに描かれるウ●コは、私たちが知っているものとは違う。目的が笑いであり、登場人物のキャラクターを表現するための小道具としてのウ●コだから当然だ。そこにリアルは不要である。
 リアルが必要か不要かは、読み手というよりも書き手の事情で左右されることが多い。これは一般的にはレトリック技術の高い低いで判断されやすく、言葉の技術(ボキャブラリーを含む)が高いほど、リアルに描けないものを上手に表現する、とされている。
 だけど、そんなものはクソだ、と思う。
 別に過激にやりたいからそう言っているわけではない。事実として、便宜が図られ利益を受けている状況があるのに、それを偶然だとかその人たちに利益を与える意図はなかったと言い張るために消費される言葉の数々に、言葉としての値打ちがないことは明らかである。もちろん、法的にどうなのか、というのは別の話だ。
 法的に裁けないことを倫理的に裁こうというのはそもそもムリ(魔女裁判のようになる)だが、そこで言葉を弄ぶのは、攻撃側も守備側も危険で虚しいブーメランの飛ばし合いとなっていく。
 つまり、リアルとは、言葉でごまかせないものだと言える。私がいま書いたように、どれだけ言葉を募ってみても(法的、倫理的、魔女裁判、ブーメランなど)、事実が変わるわけではない。事実はなくならない。
 そして書き手として、そのことをストレートに表現したいときには、レトリックは不要になる。というか、むしろ邪魔になる。
 私はだから、バカみたいに正直にそのままをそのまま表現することがある。
 その一方、本当に書きたいことは慎重に深く埋めて、パッと見てもわからないようにすることも、書き手の事情である。そのことについては、ストレートには書きたくないのだ。
 私はなにかを主張するために作品を書いているわけではないので(主人公が主張をする立場の場合にはその主張は表に登場するが)、楽しく読んでいるときに妙な主張が浮かび上がりすぎると、つまらなくなってしまう。だから、隠す。
 あからさまな表現と慎重に包み隠した表現。
 この両方の、いわば両極端の判断の中で、いつも揺れながら書いている。
 引くような話を嫌悪する人たちも多いことはわかっている。私だって、嫌いなニュースに毎日、直面している。嫌いな写真もある。嫌いな映画もある。嫌いな作品もある。嫌いな表現もある。
 嫌いだからといって、見ない読まないわけではない。
 私は嫌いなものも食べる。そして「やっぱり嫌いだ」となることもあれば、「今日に限って悪くない」と思えることもある。
 受け止める側は、発信する側とは違う。私の中でもそれは明らかに違うのだ。
 そのため、私はいつからか、読み手を忖度して作品を書くことを止めている。どれぐらい前からだろう。とくに「荒縄工房」となってからは、一切、マーケティング的に作品を考えたことはない。
 短い人生、いまの時代には書きたいことが書けるのだ。商業的に多額の金銭や名誉などと引き換えに、マーケティング的な作品を書いてもいいかもしれないが、幸か不幸か、私はその道から外れた。
 だったら、いまさら、マーケティングを意識して書くなんてナンセンスである。書きたいことを書きたいように書く。
 もちろん、マーケティングをしないからといって、読者を無視して書いているわけではない。私は自分の中でいつも読者を想定しており、その読者のために書いている。それだけは揺るぎがない。
 これからも、たぶん、引くような話を書き続けることだろう。それは書き手のエゴではあるが、読者を念頭に置いていることだけは確かだ。
 私は書くことが人生の目的だとは考えていない。書くことは手段である。
 読者の喜びは目的になっている。喜びにもいろいろある、と理解していて、私の作品への嫌悪も含めて書き手として責任を持って「引くような話」を書く。
 おそらく、それが書けるうちは、私はまだ書くという手段への希望を失っていないだろう。

(協力:エピキュリアン DVD緊縛折檻未亡人 春菜はな 作品紹介


小説(官能小説) ブログランキングへ

★『隷徒1 聖香の章』★
reito100100.jpg
DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
アマゾンKindle版はこちらへ
シリーズ1作目。荒縄学園に転校してきた聖香。その性癖を暴かれ、退学が嫌なら隷徒として卒業を目指せと命じられる。だが隷徒は全裸で教員や生徒たちのあらゆる要望に応えなければならない……。表紙とイラスト1点・月工仮面。



★『隷徒2 姉妹の章』★
隷徒2100100
DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
アマゾンKindle版はこちらへ
シリーズ2作目。隷徒・聖香の恥ずかしい姿を目撃してしまった姉の翔子も引きずり込まれ、本性を暴かれて特別隷徒にされていく。捌け口として肉体をいじめ抜かれる姉妹。表紙とイラスト1点・月工仮面。


★『隷徒3 母娘の章』★
隷徒03
DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
。シリーズ3作目。隷徒となった姉妹。その母の過去が明らかになり、母娘は暴虐の渦に突き落とされる。表紙とイラスト1点・月工仮面。


エピキュリアン1


今日のSMシーン



テーマ : 官能小説
ジャンル : アダルト

くされ作家のクズ箱 その27 表現の限界と妄想

前回はこちらへ

30010108_20180422165850b39.jpg

 くされ作家は、SM小説に魅せられて自分なりの作品づくりに没頭している男である。

 この男の頭の中では妄想が渦巻いている。あらゆる場面で「もし……」と思う。すべてがSMやエロの妄想、というわけではない。
 自分にとっておもしろい方向性を考えるとき、いつもいく方向ばかりではおもしろさが足りない。いつもと違う道で、なおかつおもしろい方がいい。
 ところが、いつもとは違う方向へ進むと、必ずおもしろいとは限らないのだ。おもしろいときもあれば、そうでもないときもある。「やっぱりいつもの道に行けばよかった」と思うこともあるだろう。
 最初は失敗したと思った未知の方向に、徐々におもしろさを見出すこともある。これは経験があるかどうかの差かもしれない。
 自分の中に強い抑制、いわばブレーキが備わっていると、そもそもが選べる方向性は少なくなる。
  一方、抑制を外すことに成功したときは、無限の道がある(ような気がする。実際にはないけど)。
 表現に最初から限界を設けたとき、自然と選べる道は少なくなってしまう。
 だが、「表現上、選んではいけない道」だからといって、進んではいけないわけではない。表現するかどうかはあとのことで、道を進んでいくことで見えてくるものがある。
「この道はないな」と行きもしないでやめることは、妄想を小さくしてしまい、結果的におもしろさを小さくしてしまう。
 表現には限界がある。それは技術的な限界がまずあること。技術的限界は、考えれば非常に深いものがある。よく言われるのは表現者の「未熟さ」であるとか「無知」だろう。
 私は未熟さ、無知は、大きく考えてはいけないと思っている。たとえば、十代でデビューした作家の四十代の作品は、四倍成熟していて知識が豊富になっているかと言われると、そうかもしれないとも言えるが、そうではないとも言えるからだ。
 十代に受けたものをその後、ひたすら繰り返す、または洗練させる道もある。途中で飽きてまったく違う道に行く場合もある。そうした表現者側の技術的な限界は、加えて市場(ニーズ)の技術的限界とも関係している。
 ある表現について、いきなり難しい内容にしていくと理解できる人が減り、表現が伝わらない可能性が出てくる。
 たとえば十代でデビューした表現者が哲学の専門家になっていき、二十代では哲学を背景とした表現に傾注していったとしたらどうか。技術的にはより成熟しているはずなのに、その作品を評価する者は減っていき、理解者が減り、結果的にその向上した技術は自己満足になってしまう場合もあるだろう。または何十年後かに再評価されるまで放置される可能性もあるだろう。
 技術はあらゆる分野でそうだが、どれほど優れた技術によるものでも、市場に受け入れられなければそのまま放置されてしまう。
 表現も同じだ。過去にさまざまな表現者が現れては消えていく中で、自身の技術的問題よりも市場によって消えていくほうが圧倒的に多いだろう。
 つまり、表現者は自身の技術を磨くことはあってもいいし、なくてもいいのである。
 また無知の部分も同様だ。自分は無知であることを知ってさえいれば、無知であることは表現にとっては大きな問題ではない。知らないことで受ける批判は、「過去の表現を知らないで似たことをやる」といった場合と「こんなことも知らないのか」といった場合が主だろう。
 で、前者については、いまの時代、類似性は限りなく微妙になっている。模倣していないのなら類似性は「あり」だ。類似性を排除したら表現は成り立たない。その点を考えると、どれだけ知識を得たとしても、過去作品との類似性は起こり得る。したがって、「知りませんでした」は表現については、あり得ることであり、表現者の責任は類似を指摘されてからの態度や姿勢にはあるものの、やってしまった表現については責任はないと私は思っている。
 さらに「初歩的ミス」などと言われる「こんなことも知らないのか」も、市場の知識レベルとの兼ね合いとしか言いようがない。これは表現できる人にとって、知識を万全にしておかなければならないというプレッシャーは常にある。だが、それを習得しなければ表現できないのかと言われると、私は関係ないと思っている。表現ができるのなら、知らなくてもいいのだ。
 たとえば、宇宙を舞台にした表現は多数あるが、宇宙についてどれだけ知っているというのだろう。宇宙の専門家であっても、いまだに未知の探究をしているというのに、そのレベルに到達することは簡単ではない。
 加えて、私のつたない経験であるが、こうした知識で武装された表現は、知識の壁という限界のせいで、おもしろさを大幅に削がれていることが多い。
 あっちの道に行けばいいのに「そっちはダメだ」と知識によって制限を受けることがあるのだ。
 ところが、これも市場(ニーズ)によっては、知識的には否定される道も肯定されてしまうことがあるのだ。
「男がそんなことはしない」と思われた時代に一般的だった表現と「男だってする」と思われている時代の表現では大きな差がある。
 健康にいい食べ物の常識は、時代で大きく変わっているため、過去の表現の中にはいまでは通用しないものがあっても不思議ではない。
 このように、案外と、表現に加わる制限は少ないはずなのに、表現者はさまざまなプレッシャーを感じて自主的に制約を設けていくのである。
「自分は専門家ではないので、こういう表現はできない」とか「よくわからないから、書けないな」とか。逆に「他の作品でこう表現しているから、それはいいんだな」と真似をすることは多いかもしれない。だが、それは必ずしも自分の望む道ではないかもしれない。
 こうなると、いかに上質な妄想を持てるか、制約を取っ払える自由さがあるかは、表現にとって重要になる。
 こう書いてみて、世間の常識とは真逆であることがわかるだろう。「行ってはいけない」「そっちはダメに決まっている」と言われている道にも進むのが、妄想だ。
 その意味で、いままで通ったことのない道、行ったことのない道を探すことこそ、表現者にとっては大切な努力かもしれないと思う。
 もちろん妄想のどの部分を実際に表現するかどうかは、別の問題になる。

(協力:エピキュリアン ニップルドーム


小説(官能小説) ブログランキングへ

★お嬢様はドM 第一部★
お嬢様1

DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
アマゾンkindle版はこちらへ
少しドジなお嬢様・丸木戸恵梨香(20歳)がマゾの衝動にかられてじわじわと屈辱的な「ドMのゴキ」となっていきます。ブログ公開版に未発表の2エピソード追加。



★お嬢様はドM 第二部★
お嬢様1

DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
アマゾンkindle版はこちらへ
お嬢様として育てられた恵梨香は、M性に目覚め執事の息子の遠隔調教を受けることに。執事夫妻、代理として屋敷に入り込んだ男、巨根の運転手、そして調教のプロたちから日夜、心身の限界まで責められていく。さらに大学の友人たち、婿候補の子息たちにも……。 未公表部分追加。


エピキュリアン1

今日のSMシーン
【お得セット】女因拷問 東尾真子 朝桐光 白鳥寿美礼
【お得セット】女因拷問 東尾真子 朝桐光 白鳥寿美礼


テーマ : 官能小説
ジャンル : アダルト

くされ作家のクズ箱 その26 お詫び そしてSM小説とそれ以外の世界

前回はこちらへ

お詫び 『メロー・マッドネス』は今週は休載です。すみません。
お詫び 従来の公式ツイッターが永久凍結となりました。フォロワーのみなさん、すみませんでした。
なお、新しいツイッター @tokyoindiessun もよろしくお願いいたします。

 くされ作家は、SM小説に魅せられて自分なりの作品づくりに没頭している男である。
 久しぶりに近況を含めてコラムを書いてみることにした。
 私は荒縄工房で独自のSM小説を書いてきた。2011年5月からだから、2018年で7年になる。なにかを成し遂げるには十分な期間だ。でも、私はなにも成し遂げてはいない。当初5年で100作品を書く計画だった。7年で連載中を含め六十をやっと超えたところだ(シリーズもバラバラにして計算)。
 その中に、最近、自称「フツー小説」が混入してきた。
 フツーとは18禁ではない作品の意味。『変態ですみません』は、百恵と丸夫の変態夫婦の日常を描いている。百恵はコスプレーヤーだったが変態嗜好が強く、丸夫は出版社勤務であるものの編集など出版社らしい部署ではなく事務職である。変態ではあるが、マジメに生きている人たちの、そこはかとない話である。
 私がSM小説で描いているような人、またはその周辺にいる人たちの思いを表現してみたかったのだ。
 そしていま連載している『メロー・マッドネス』に至っては、いわゆるアクション系のフツー小説だ。主人公は梨々花という奴隷。彼女は自ら人生を捨てて工藤の奴隷になっていた。それが工藤を破滅させた藤崎の物になってしまったところから話は始まる。
 こちらも、まったく同じ考えで、私がこれまで描いてきた人物が、まったく違う状況に置かれたらどうするのだろうと、あえてフツー小説で描いてみた。
 正直な話、フツー小説は、面倒である。SM小説には「お約束」がある。私はかなり破壊しているけれども、それでも「お約束」を意識し、その囲いから外には出ないように注意している。
 ところがフツー小説にはその囲いがない。なにを、どう書いてもいい。自由だ。
 この自由さが無限の困難を招く。
 真っ暗な中、小さな懐中電灯で足元だけを見ながら歩いているようなものである。信じていることは、自分自身にとって「おもしろい」と思える道であること。そして「信じられる」道であること。この2つぐらいしか頼るものはない。
 人間は弱い。「おもしろい」も「信じられること」も、ブレていく。まして足元しか見えていないと、うっかりその気はなくてもズレてしまうことはある。
 その時は、創作者、表現者としての裸の自分しかいない。武器もパンツも靴下もない。その状態で必死に書くしかない。
 ある時からコラムが書けなくなってしまった。その代わり、フツー小説を書くようになった。そして今日、このコラムを書いているということは、そう、いまちょっと壁にぶつかっているのだ。
 大した壁ではない。『メロー・マッドネス』はもうすぐ終わる。少なくとも今回書きたかったことは終わる。それだけに、愛おしくなってしまったこともあるけれども、極端な遅筆になってきてしまったのだ。
 終盤を描くためにもう少しだけ時間をいただきたい。そんな気持ちなのである。
 SM小説を書いていて、そういうことは一度もなかったので、これも自分にとっては大切な経験の一つだと思っている(みなさんにとっては迷惑なだけでしょうけれども)。
 また『メロー・マッドネス』は「小説家になろう」にも掲載している。これもはじめてのことだ。「なろう」では章ごとにまとめているだけではなく、PDFで縦書きで読むこともできるため、数字もできるだけ縦書きに修正している。
 時間以上に精神的に大きなダメージを受けたこととして、荒縄工房をはじめてから続けて来たツイッターの永久凍結がある。警告なしの凍結に何度も異議を送付していたのだが、結局は「復元しない」と通告されてしまったのだ。
 一緒に育ってきたアカウントである。原因はこちらには思い当たる点はなく、どう見ても海外と思われるスパムが、こちらの@をずっと貼りつけたままツイートを繰り返していることが問題なのではないだろうか。凍結後も通知はこのスパムだけやってくるのだ。
 このあたりの詳しい回答はなく、ただ規約違反だからダメというだけなので対応のしようもなかった。多くのフォロワーのみなさまにご迷惑をおかけしていると思う。この場を借りてお詫び申し上げたい。
 なお新しいアカウントによる公式ツイッターを稼動させているので、これを今後は続けていくつもりだ。
 ただ、これからの活動をどうやっていくか、正直自分に問い直す日々が続いている。なにかが起きたとき、それはメッセージであったりサインだと私は思うからだ。
 いまが、荒縄工房の転機なのである。それがどういうものなのか。小さな懐中電灯だけで闇夜を歩き続ける者には、まだよくわかっていない。
 間違いのないことは、それでも歩き続けること。歩ける限り。勇気がある限り。


小説(官能小説) ブログランキングへ

★美魔女狩り 浅木郁子編★

DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
アマゾンkindle版はこちらへ
藤木たち「美魔女狩りチーム」初登場作品。 銀行支店長として活躍していた美魔女・郁子は、脱出不可能の罠にはめられる。肛虐を主体とした責め苦の中で壮絶なアクメを繰り返すうちに、すべてを失い尻穴女郎・イク子へと調教され、部下や取引先から暴虐の限りを受ける。



★家畜妻の歌★
家畜妻

DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
アマゾンkindle版はこちらへ
新婚の若妻が夫と取り交わした家畜妻契約。古びたアパートの一室で7人の飼育員によって日々、調教されマゾの悦びにどっぷりと漬かっていく。調教を受ける若妻の視点で描く。


エピキュリアン1

今日のSMシーン
初ス○トロ解禁!!コスプレイヤー 監禁スカ○ロ凌辱 槇原愛菜
初ス○トロ解禁!!コスプレイヤー 監禁スカ○ロ凌辱 槇原愛菜

テーマ : 官能小説
ジャンル : アダルト

くされ作家のクズ箱 その25 SM的シチュエーション

前回はこちらへ

28030101.jpg

 2月以来の再開です。

 くされ作家は、SM小説に魅せられて自分なりの作品づくりに没頭している男である。
 SM小説の描写には、男の勝手な都合から発展していった部分が多々ある。
 一般的な小説なら、「昨日、彼女とセックスした」で終わってしまう可能性もあるけれども、官能小説は、その「セックス」の描写を中心に描いていく。
 SM小説はセックスなしでも成立するが、SM行為全体をある意味のセックスと取らえることもできる。少なくとも私はそう捕らえている。以前、性的不能者のセックスについて触れたが、SMにはプラトニックな側面もあるからだ。
 いずれにせよ、「こんな小さいことを、子細に描く」みたいな傾向は否めない。
 獣欲などと表現することもある。固くしたものを突っ込んで激しく擦りつけて果てる。とにかくフィニッシュするための最短距離を突っ走る。そんなセックスもある。
 ただ、人間はいつもそんなにせっかちなわけではない。セックスは体と体を絡ませるため、どちらも多少は妥協しつつ、その上で自分の欲望を満たそうとする。「優しく」とか「繊細に」と思っても、欲望に押されるように急いでしまうこともある。
 回数、年齢、相手によっては、もっとスローなセックスも考えられる。男でも、勃起したら入れて射精すればいい、と考えている人ばかりではない。欲望は、もう少し複雑なのだ。
 男の勝手な都合とは、「じっと見ていたい」というものだったり「放置してみたい」だったり「勃起するまでのインターバルも女には感じ続けて欲しい」といったものだったりする。
 なおかつ、独占したい。文句は言わせたくない。SMのあらゆる場面が、女性の素直な一言によって台無しになっていく可能性を秘めている。
 たとえば、浣腸したときに、ひたすらあえぐとか嘆くとかしてくれればいいのだが、「浣腸液が冷たい」とか「体調悪いから半分にして」とか言われると(リアルではあるが)、男の勝手な都合からどんどん逸れていく。
 男女に限らないが、二人の世界は二人で作り上げている幻想部分と、お互いのリアルな部分がせめぎ合う。
 夕飯をなににするか、どの映画を見るか、休みにどこへ行くか、といった些細なことでもこのせめぎ合いと妥協が関係性を保つための要素だったりもする。
 セックスもまったくその通りで、男が主導権を取りたいと思っても、必ずしもそうはいかない。
 SM小説では、女は縛られて猿ぐつわをされ、なにをされても抵抗できない状況を容易に作る。いや、この状況が他のジャンルの小説よりもずっとスムーズに(悪く言えば安易に)作られてしまう。そうでなければ、SM小説ではない、と言わんばかりに。
 これもまた男(または支配欲というか、なんかそういうもの)の身勝手な幻想を具体的に描き出すことが、SM小説の目的の一つになっているからだ。
 だが、私は荒縄工房で作品を書き続けることを決めた2011年に、一般的なSM小説らしいSM小説を書くだけではなく、そこから逸脱したタイプの作品も書こうと考えていた。新しい器(ネット、電子書籍)には新しいタイプの作品があってもいいと思ったからだし、私自身の身勝手な欲望でもあった。過去の偉大なSM小説群を再びなぞるのもいいとは思ったが、できればそこから外れたタイプを探してみたかった。
 たとえば、「君の泣き顔が見たい」は最初から従来のSM小説とは違うタイプとして企画された。主軸は恋愛小説である。恋愛小説の一つの重要な構図は「求めても得られない」ことだ。このため、あまりSM小説には登場しないことだが、主人公は逮捕され5年間の刑期を過ごすことになる。そして引き裂かれ、二度と会えない現実に直面する。
 それでいて、再会も恋愛小説の重要な構図であるので、物語は思いがけない再会へと進んでいく。
 どうしてこうした部分がSM小説ではあまり登場しないかと言えば、そこにSM小説としての官能性が見つからないからだ。このため、出所したときかつて彼女と引き合わせたきっかけを作った女(麻紀)と再会し、彼女と関係を持つだけではなく、彼女が差し向けた人妻奴隷という存在を追加している。この人妻奴隷は、ある意味典型的SM小説の登場人物を想起させる。
 ここで私が思ったのは、愛のあるSMと愛のないSMの対比だ。
 実はすでに完結している「淫虐の楽園」でもこれを試みている。主人公が愛してやまないのは娘たちである。娘たちを引き込むために、母親を奴隷にしていくのだが、そこには愛はない。
 私はなにも愛のないSM関係を不毛だと主張しているわけではない。SMのすごいところは愛を通り越して行為に集中することでお互いに満足していく世界があり得る点だろう。
 では、SMに愛は邪魔なだけなのか。そんなはずはなく、たとえば執着する気持ち、とことん堕としていきたい気持ちは、愛情の裏返しとして描かれる。
 愛が一方的で強ければ強いほど、相手は破壊的な運命を辿る。まさに身勝手。受け入れられない愛ほど虚しいものはなく、その存在は愛を感じた側にしかわからない。
 結婚式はお互いの愛を他者にわかりやすくプレゼンする儀式とも言える。横恋慕、片思い、執着心といったものは、他者にわかりやすくプレゼンする機会はない。それを感じている個の中にしかない。
 そして、その愛が爆発するとき、世の中では一般的に「事件」となる。一方的身勝手な愛のプレゼンは事件でしかない。もちろん世間は知ることになるが、認めることはできない。してはいけないこととして記憶される。
 SM関係には、これに似た状況が起こり得る。拘束、監禁、暴行であるから、立派な事件だ。グローブをつけた殴り合いでも、ボクサーがリングの上でやる時以外は犯罪になり得る。そのきわどさは、身勝手な愛の特徴なのかもしれない。
 SM小説でもっとも難しい部分は、どうすればこの一方的で身勝手な愛を、作品でスパークさせることができるかだ。ミステリーで重要なトリックと謎解きのように、SM小説では、このスパークのためのSM的シチュエーションが重要になる。
 荒縄工房では自虐的な主人公が自ら堕ちていく作品を主に書いてきた。あえてSM的シチュエーションを作らず、「そもそもこうなのだ」という強引なやり方で突っ走るスタイルを探ってきた。
 そして五年を経ていま再び、SM的シチューエーションに向き合って作品を書いている。SM的シチュエーションに向き合いながらも、過去の偉大な作家たちによるSM作品とは違う道はないかと模索している。
「変態ですみません」そして「メロー・マッドネス」という自称フツー小説を書きはじめたのも、その一貫だ。支配するされる関係は、SM小説や官能小説以外でも成立する。フツー小説の枠組みの中でなにが描けるか、挑戦している。
 結果的に「メロー・マッドネス」と「君の泣き顔が見たい」は、どこか底辺で同じものを持っている作品になっている。前者はフツー小説(だけど主人公は奴隷)、後者は荒縄工房風SM小説(だけど主人公は懊悩する)。
 このチャレンジがどういう結末を迎えるにせよ、くされ作家としては避けて通ることのできない道をいま、歩んでいることだけは確かだと信じている。

(協力:エピキュリアン アームクラッチバンド


小説(官能小説) ブログランキングへ

★小説『堕ちる』特別編★
堕ちる1

DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
Kindle版はこちらへ

OLが自虐の果てに見たものとは? ブログ連載を加筆修正の上、未公開の原稿を追加しました。主人公は壮絶な自虐癖から拷問ののちに人間ですらなくなっていく……。



★小説『堕ちる』Part2 シークレット・バージョン★
堕ちる2

DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
OLが拷問地獄に堕ちる『堕ちる』の別バージョン(「小説『堕ちる』特別編」の続編ではありません)。初出時にあまりの描写に小説掲示板から削除されてしまった部分などを復活。お読みになる前に「体験版」などにある「ご注意」をご確認ください。


エピキュリアン1

今日のSMシーン
逃亡M奴隷捕獲監禁アリ地獄 浜崎真緒
逃亡M奴隷捕獲監禁アリ地獄 浜崎真緒


 

テーマ : 官能小説
ジャンル : アダルト

くされ作家のクズ箱 その24 女と視点と羞恥心と

前回はこちらへ

 くされ作家がデビューしたときに、SM小説はすでにブームを終えようとしていた。ブームを牽引していた作品の多くは、「羞恥」を主要なテーマに据えていた。
 ところが、世の中ではタブーは減り、オープンになっていき、羞恥に対する人々の評価、捉え方も変わっていった。
 いまの時代、肌を露出しても恥ずかしくはないが、成りきり度合いが低いのは「恥ずかしい」。完成度が低くても、思いきりよくやり切ることができれば、むしろ評価の対象となる。失敗すれば「恥ずかしい」。
 羞恥心は、自己評価よりも、他者評価である。自分の恥ずかしさと、他人から見た恥ずかしさでは、いまの時代は圧倒的に他者評価である。
「おまえ、それ、恥ずかしいよ」という時代になったのだ。
「え? そうかな」
 当人はそれがどうして、どう恥ずかしいのかわからないケースが増えている。または自己評価の「恥ずかしさ」は克服すべきテーマと捉える傾向が強い。
 古典的SM小説では、被虐側は、強い羞恥心を持っている。自己評価である。ミニスカートで銀座を歩くこともできない。ナマ足もダメ。まして、半裸で街を歩かされるなんて……。こういう羞恥は「卑下」ともとられて、「古い因習」からのものとして否定されていくわけだ。
 いや、いま女子大生だって夏場は半裸と言っていい。私も毎年、輝くばかりの太腿の群れに遭遇してはため息をつく。「恥ずかしくないのか」と。
 また、男の感じる「恥ずかしさ」と女の感じる「恥ずかしさ」はかなり隔たりがある。男の恥とは「みっともなさ」であり「はっきりしないさま」でもある。女の恥は、「一時のものか、死ぬまでか」といった時間軸がまず先にあり、たいがいの恥は「一時のもの」と割り切る潔さがある。男はそれができずに悶々とするが、その悶々する様がすでに恥ずかしいと女には映るようだ。
 もちろんそうじゃない男女もいるだろうが、一般化するとそんな感じを私は持つ。とくに子どもを生んだ女性の「恥」は、出産未経験の「恥」とはまるで違う。母は強し、という言葉もあるように女は母になると羞恥心を他人事にできてしまう。
 不倫を糾弾された男女の反応の差も、興味深い。男は「しまった」と思いがちで、なかったことにしようとする。女は「二人で一緒なら世界を敵に回しても平気」なのだが、男は情けない方向へ逃げるために女は取り残され、その怒りから開き直りへと向かう。
 いや、実際はメンタル面では大変なのだとは思うけれど、男は恥をかいたあと社会との関わり方を変えようとするのに対し、女はそれを「一時」と割り切って以前のままの姿で復帰しようとする。
 男が描くSM小説では、これがしばしば逆になる。女は恥ずかしさのあまり、その事実を隠そうとして、さらに深みにはまっていくし、いつまでも恥を恐れてしまう。
 現実はそういう女性よりは、早々に開き直る女性の方が多いのではないだろうか。
 SMにおいては、羞恥プレイはとても重要なものだが、その意味するところは、創作としては女性の姿で描かれていながらも、実は男性の羞恥を描いていることが多いと私は思っている。
 男性読者はたとえM的要素はなくても、羞恥に悶え苦しむヒロインの姿に愉悦を感じるのである。このあたりは、「女よりも女らしい」と言われるように、女形の演ずる女性像などから伝統的に続いている感覚だろう。
 古典的な作品でも女性を男性視点から理想化することは多いので、そうした教養を持った男性はどこかにその感覚を理解する素地があると思う。
 女性の描く女性のためのSM小説と、男性の描く男性のためのSM小説は、こうした視点の差、経験の差、そして伝統的な概念の差などから、結果的にかなり違う作品になっていく。
 女形の文化のおかげもあって、SMプレイでM役に浸ることのできる男性が多く存在するのに対して、M役に浸る女性はどちらかといえば少ないと思う。女性のM役は当初はMらしく演じるのだが、やがてSを包み込むような存在(母視点)になりがちで、どちらかといえば支配する側になっていることが多いだろう。
 男は女には勝てないのである。
 そのせいか、男がSへ向かえば、女を無理やり奴隷にするような世界を妄想し、Mへ向かえば強い女に支配される肉便器奴隷を妄想しがちなのは、理解しやすい現象ではないだろうか。
 そこからさらに倒錯して、強い女に支配されるMな女役、つまり男が理想とするMな女役に浸る男、といった姿になっていく。
 女装していじめられたい、女言葉を使いたいといった要望は、それほど意外ではない。
 私が、女性主人公の一人称で小説を書くようになったのは、ネットの掲示板に書くようになってからのことだ。
 主に三人称で描くことが多かったのだが、あるとき、掲示板でしかも匿名で公開するのなら、性別は好きなようにできるのではないかと気づいた。「ネットおかま」という言葉もすでにあった。私の場合は作品だから、女性になりすまして誰かを騙すような犯罪行為ではない。堂々とやっていい。
 いじめられる女性の視点で描くと、自分の描きたいSM小説が、思った以上にスムーズに書けることに気づいた。
 プロの作家として作品を書いていたときは、男性のペンネームであり、編集者にも男性とわかるわけで、そこに男特有の羞恥心があってそれを吹っ切ることができなかった。
 だが、ネットではそれができた。
 このおかげで、「あんぷらぐど」は極めて羞恥心のないストレートな描写を平気でするようになったのだ。
 このあたりは男として生まれたことが残念だけど、それは私の育った時代が「男は男らしく」がまだ一般的だったことの影響こそ問題にすべきかもしれない。
 私は男であり同時に女でありたい。両性具有が理想だ。作家というのは欲深いもので、あらゆる視点が欲しい。神にもなりたいし、同性愛者にもなりたい。雄々しくもなりたいし、女々しくもなりたい。
 恥ずかしさに身もだえしたいし、恥を恥とも思わない人にもなりたい。いい人にも悪い人にもなりたい。何度も死んでみたいし、死後の世界も経験したいし、幽霊になって誰かに取り憑いてみたいし、生まれ変わってみたい。人ではないものになってみたい。
 ま、こんな具合に果てしなく欲が深い。この欲が創作の原動力となっていることは確かだ。
 そして「荒縄工房」をはじめるとき、私は女性主人公の一人称形式をもっと続けることを自然に選択していた。ある作品では、当初は三人称で描いたのに、刊行時には一人称に変更したぐらいだ。
 憑依できないかもしれない登場人物を想定したとき、どうしても腰が引けて三人称になる。突き放して、わからない部分はわからないままにしておくときには、三人称が便利なのである。
 簡単に言えば、主人公がトイレに入っている間に、会議室でされていた会話は、一人称小説ではあとから知ることになるか、または永遠に知ることはない。三人称なら同時並行に描くことも可能だ。
 一人称は制約が多い。視点がそこに留まる。その人物の受け止め方で描くので、その人物のことはすべて理解していないと書けない。または「理解できている」と思い込まないと書けない。
 それでいて、一人称は書きはじめるとほとんど滞るところがない。なにしろある意味憑依した主人公、つまり「自分」のことを語っているだけなのだから。
 三人称は迷い続ける。描写の選択肢が多いために、いまどこを誰の視点で描くか。いわば演出プランが不可欠になる。
 本来、ストーリー重視のときは三人称のほうがいいと思う。神視点、または複数視点で立体的に描くことができる。主人公の知り得ない事実に触れることができる。
 たとえば現在連載している作品のうち『淫虐の楽園』は三人称で神視点だ。登場人物それぞれの心情を描きたいのと、ときどきシーンが分裂するからだ。同時に別のところで事件が起こるので、それを描くには三人称のほうがいい。
 また、主人公はとんでもない悪人であり、その思想はとてもわかりにくい。だから、主人公の一人称で書くと、私にしかわからない作品になってしまう恐れがあった(それにこの主人公はおそらく自伝や日記は書かないタイプの人間だ)。
 一方で『シェアしてください』は、主人公の女子校生の一人称とした。この作品はホラー要素があるので、主人公にわからないことは、むしろわからないままの方がいい。そしてストーリー以上に、主人公の欲望、情念が中心なので、ぐっと深く入り込むには一人称がふさわしい。
 ただ、こうして書いた原稿をあとでまとめるときには、別の考え方になる可能性はある。
 結果的に、書き終わらなければ、どの視点が正解だったのかはわからないのだ。
 もっともすでに6年目に入った「荒縄工房」のおかげで、私は定期的に女性の一人称視点のSM小説を書かないと気がすまなくなっているのも事実である。年を取っていわゆる更年期以降、男性ホルモンが減少し、女性ホルモンが勝つという話もあるので、私はオバサン化しつつあるのかもしれない。
 この頃は、テレビの「ロンハー」で見せるカンニング竹山の女装姿に、以前のような嫌悪よりも親近感を感じているほどだ。ただ、それもまたちょっと捻くれた男視点ではあるのだと思うが。


小説(官能小説) ブログランキングへ

★縄味1★


DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
アマゾンkindle版はこちらへ
若き人妻は「なわみ」というハンドルネームで緊縛写真をネットで見るようになり、写真展に立ち寄ります。そこでカメラマンにモデルに誘われる。顔出しNGで緊縛モデルのテスト撮影をしたところ、唯一顔の写っていた写真がネットに流出。義兄の目に止まってしまう。



★縄味2★


DMM.R18版はこちらへ
DLSite版はこちらへ
アマゾンkindle版はこちらへ
「縄奴隷なわみ」として義兄に脅され恥辱にまみれたデビューを強要される。野外での撮影会で人妻奴隷の限界を超えてしまい、残酷なショーに出演することに。哀しくも完全奴隷化されていく。



エピキュリアン1


今日のSMシーン
生徒たちに晒し者にされた女教師2 立花仁美先生 病院編 尾上若葉
生徒たちに晒し者にされた女教師2 立花仁美先生 病院編 尾上若葉



テーマ : 官能小説
ジャンル : アダルト

最新記事
カテゴリ
各作品を掲載順にお読みいただけます。なお、作品刊行前に予告なくダイジェストのみの公開になります。
相互リンク
ブロとも一覧

SMデータベース

きょうもいいてんきっ♪♪♪

究極エロ画像まとめ ~ぬきぬき~

ちょっとエッチ・だいぶエッチな画像

緊縛の館

ある調教日記

Sayaka

ハルカの自撮りDougaでDoda | 素人オナニー動画でゴメンナサイ

Tataのアダルト学習帳

僕の変態性処理奴隷ペット 繭子の調教日記

Fetishi-SM いろは

畜奴の家Ⅱ

従順ブタ妻 弥生のSM日記

半熟夫婦の露出日記

淫縛と調教の世界

美しい人妻

SM~猟奇の性書~変態

M男の人間便器動画

緊縛 鼻責めコンテンツアウェイのブログ

~変態奴隷への調教課題~

隠れ変態女に愛を込めて~隠れ異常変態性欲女のための『叫びの壺』

【M男向け】S女とM男の天国 / [For Male Masochist] Heaven of Sadistin and Masochist

Japanese-wifeblog

メイの日常

OL夢華の秘めごと遊び

本当の快楽は40代から

Mogaの寝取られブログ&寝取られ動画専門サイト[MOGA07NTR]

CFNM・マゾヒスト・露出狂研究所

ネこトこネこ

サイズフェチと巨大娘のss小説が大好きな妄想日記

SELF BONDAGE 変態M男の露出と自縛

SM事師たち-無料SM動画学入門-

緊★縛エロチカ★

SM Sleeper

従順M妻の日記

海外SMグッズ通信販売専門店tarantula(タランチュラ)FC2公式ブログ

パイパン奴隷の野外露出とSM調教

拷問刑具図鑑 【SMブログ】

(羞恥+露出+調教)×理性=堕ちる。。。

ゆかりのいろんな日常
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

月別アーカイブ
カレンダー
05 | 2018/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
プロフィール

あんぷらぐど

Author:あんぷらぐど
 アクセスいただきありがとうございます。このブログは18歳未満はお読みいだけないアダルトサイトです。
 表現上、お食事時にはふさわしくないときもありますので、お気をつけください。
 なお本ブログに掲載している作品の著作権はあんぷらぐどに、出版権は電子も含めて荒縄工房にあります。無断転載・印刷・流用はできませんのでご注意ください。

 荒縄工房の取説もご参照ください。

 現在の掲載日程
※2018年4月14日からは下記の予定となっています。

火曜日・水曜日
 監禁日記
木曜日・金曜日
 被虐の家
土曜日・日曜日
 いいなりドール
月曜日
 妄想絵物語(イラスト・月工仮面さん)
 または「コラム」
 月は休止の場合あり


ホームページ 荒縄工房 オリジナルSM小説の世界
 刊行作品についての解説・目次など。

FBページ「荒縄工房 電子書籍部」
 荒縄工房からのお知らせはこちらで随時お届けしています。

SM研究室
 ライブドアブログ。ただいま休止中。バックアップ用。

今日も上機嫌ってわけないだろ
 あんぷらぐどのエロなしブログ。





「荒縄工房」全作品リスト




バナー倉庫

 ここで取り上げている作品はすべて、フィクションであり、実在する、人物・地名・団体とは一切関係ありません。また、特定の団体、宗教、人種、性別などを誹謗中傷する意図はありません。

人気ブログランキングへ


ペンネーム「あんぷらぐど」
1970年代からのSM小説を読み、書き。「仲ゆうじ」などのペンネームで「SMセレクト」などに小説を書かせていただいておりました。
未発表作、新作などを随時、お読みいただきたいと思っています。

FBページ「荒縄工房電子書籍部」
ツイッター@tokyoindiessun
ご利用ください
最新コメント
検索フォーム
QRコード
QR
相互リンク2
最近更新されていない相互リンク先です