荒縄工房短編集 第一話 別れの儀式(1)
美奈は窓の向こうに沈んでいく夕日を見ていた。もう一年にもなる。というのも、やや西を向いたこのマンションの部屋から、まともに夕日が見えるのは冬至の頃だけなのだ。
去年はクリスマスを絹恵と一緒に過ごしたいばっかりに、この部屋に誘われるがままに泊まりに来たのだった。
「痛いっ!」
わき腹を絹恵にガブッと噛まれた。反射的に体や腕に力が入ると、拘束具のアソビが少し拡大したような気がして、美奈は自ら動きを止める。
「痛いです」
一年前。クリスマスツリーにしてあげようね、と絹恵が言い、居間の壁に頑丈な磔台が運び込まれたときも、好奇と喜びで迎え入れた。
それから毎日のように、そこに磔にされてきた。目隠しをされることもあるし、猿ぐつわをされたり、頭をすっぽり覆うゴムマスクを被らされたり、首を絞められたり、鼻フックで泣かされたりした。
磔台の組み立ても手入れも奴隷の美奈がずっとしてきた。組み立てるときに使い慣れていない電動ドライバーでネジを回転させすぎたのか、最初からいろいろなパーツがちょっと頼りない状態だった。
しかし、そこに磔にされるのはいつも美奈自身なので、壊してしまわないように加減して扱ってきた。
この磔台が壊れたら、絹恵との関係も壊れそうで怖かった。
だいたい、これまでは美奈が音を上げると絹恵はすぐに許していた。SMプレイを求める美奈だったが、痛いのは苦手なのだ。
それが最近、「痛い」と言ってもなかなか許さない。意地悪くなった。その原因は美奈にも心当たりはある。
いまも、しっかりと歯型が残るまで深く噛んで離さない絹恵の執着に恐怖を感じつつ、哀れにも思えた。
「ね、お願い。仕事でなにがあったか知らないけど、そんなに強く噛まないで」
ハアッと息を吐きながら、やっと絹恵が離れる。唾液がべったりとついた肌。でこぼこした歯型を指先でなぞる。その表情は無だ。
「生意気になってきたじゃないの、奴隷のくせに」と絹恵は取り繕うように言う。
確かに、彼女に請われるままに美奈は奴隷誓約書を自分でプリントアウトし、サインした。それもプレイの一つだからだ。お互いに大人のオンナとして、そうしたことをすべて了解した上で同棲し、プレイしてきたつもりだった。
「かわいいわ」
絹恵はキスが上手だ、と美奈は痛みを忘れてうっとりする。
それも最近は、以前ほど長くはしてくれない。ご褒美は少なく。痛みは大きくなるばかり。美奈はそれが不満だった。
磔台から解放された美奈は、戸惑っていた。いつものようにベッドへ行くのかと思ったのに、絹恵はキッチンに行ってビールを飲み始めたのだ。
全裸のまま、美奈は所在なげに消えていく夕日を感じながら、わき腹の歯型を見る。絹恵がなにかを自分に残したいと思っているのだろうか。
「美奈」と暗い声がした。
「本当に出ていくつもり?」
別れを切り出したのは絹恵だったはずだ。奴隷誓約書はプレイの一つではあったが、美奈はそれにサインしたときにすべてを絹恵に委ねたつもりだった。
別れる、と絹恵が言い出したとき、それは戸惑いでしかなかった。
「田舎に帰らなくちゃいけなくなったの。母親に認知症が出ちゃって」
キャリアウーマンとしてそれなりの地位を築いた絹恵。中年の域に達していたが、ペーパー上のバツイチで職場では押し通してきた。性癖を知るものは職場にはいない。彼女が仕事のために似たような動機のゲイと共謀して戸籍を汚したのは、一生、男とは交わらない決意でもあった。
美奈はその話を聞いて、興味を持ったのだ。絹恵が週末にやってくるバーでアルバイトをしていた美奈は、自身で女性が好きなことを公言していて、マゾ体質だと冗談っぽくしゃべっていた。
「絹恵さんのこと、興味があります」と告白すると、「奴隷になりたい?」と絹恵が持ちかけてきた。
「ソフトなSMなら」と美奈は商売抜きで応じ、何度かSMルームのあるホテルでプレイを重ねた。そして、「飼育してあげようか」と絹恵が言うので、真剣に考えた上で店をやめ、ここで奴隷として暮らしてきた。
絹恵は忙しかった。帰宅が深夜になることも多く、タクシーで帰ってくることも珍しくなかった。
絹恵のために、美奈は尽くすと決め、ネットでレシピを眺めては毎日、違う料理に挑戦してきた。掃除もきちんとしていた。さまざまな道具や器具の手入れもだ。
絹恵がいつまでも、ご主人様として輝いてくれていることを祈っていた。
「ついて行っちゃダメですか?」と絹恵に聞いたこともあった。
「うーん」と絹恵は彼女らしくもなく、煮え切らない笑みを浮かべた。
うちの田舎はね、ものすごく住みにくいところなの。美奈は都会育ちだからわからないだろうけど、閉鎖的で監視し合う仲だから、お互いの冷蔵庫の中身まで知っているぐらいよ。おまけに唯一の楽しみがお茶を飲んでお菓子を食べながら話すこと。毎日毎日、飽きもせずおしゃべりをするから、すぐネタが尽きる。だけどおしゃべりをしないわけにはいかない。共同体はおしゃべりで維持されているのね。だから自分のことだけじゃなく、親兄弟親戚友達、祖先やとっくに死んでる人、よく知らない人まで話のネタになる。そんなところに私があなたを連れて行ったらどうなると思うの。親の介護どころじゃないわ──。
「八分にされたら生きていけないのよ」
「そんな……」
江戸時代じゃあるまいし。
絹恵は大げさなことを言う。だが美奈は納得できない。この一年間、二人の関係は深まるばかりでお互いの間に紙一枚入る隙間もないほど、ぴったりに合わさってきた気がしていた。その充実度はなにものにも替えがたい。美奈の幸福は絹恵の幸福でもあったはずだ。
親の介護で田舎へ帰る。本当にそれだけが理由なのだろうか。美奈は疑ってしまう。ほかにも理由があるに違いない。美奈に飽きた、美奈とのプレイでは物足りなくなった、田舎にはそもそも彼女が好きな相手がいる……。
同窓会で昔の恋が再燃する話は、珍しくない。中年となった絹恵にとって、若すぎる美奈よりも同世代のパートナーの方が楽なのではないか。昔話もできるし、もちろん地元の者同士なら、狭い町内でのウワサ話としても、都会から娘ほどの年齢の奴隷を連れて来るよりはずっとマシなのではないか。
嫉妬に狂いそうになった美奈は、こうなったら自分から別れるしかないと思い詰め、「出て行っていいですか」と先週、絹恵に告げていた。
この部屋に誰もいなくなるところを見たくない。絹恵が地元に戻るからとタクシーに乗り込む姿を見たくない。冷たく冴えた冬空に白くポツンと浮かぶ機影に気づいて、もしかしたら絹恵が乗っているかもしれない、などと思いたくない。
「ちゃんと行くあてがあるの? もしよかったら、私が引っ越したあとも、しばらくここに住めるようにしてあげようかと思っていたんだけど」
絹恵がいないのなら、ここで寝たり起きたりできるはずがない。どうして絹恵はいまになって、そんなこともわからないフリをするのだろう。
美奈は憤り、怒り、それでもおかしなことを口走ったりはしない。そもそも、美奈は会話による意思疎通が上手ではない。子供の頃から美奈がしゃべると笑われバカにされてきた。反論されねじ伏せられ無視された。
言えば言うほど自分が傷つくだけだ。
言葉は信用できない。美奈はいまも、ときどきそう思う。
絹恵と上手にさよならを言える気がせず、「出る」と言い張って、そのままケンカ別れして消えてしまいたい。
ビールを飲んでため息をつく絹恵のシルエットは、どこか祖母に重なった。美奈は、おばあちゃん子だった。母親は水商売で忙しく、恋愛で忙しく、パチンコやギャンブルで忙しかった。
祖母はあの頃、せいぜい五十代ぐらいだったはずで、まさか六十ほどで急逝するとは思わなかった。
「どうしてこんなになるまで放って置いたんですか」と医者になじられた。救急車で大学病院に運ばれたときには意識もなく、そのまま数日で亡くなった。
放っておくもなにも、祖母は具合が悪いとか痛いとか一度も言ったことはなく、医者嫌いだった。医者が嫌いなのはお金がかかるからだとあとで知った。祖母は健康保険に入っていなかった。年金にも入っていなかった。
「早く死にたかったんでしょ」と母は火葬場で言ったのだが、本当にそうかもしれない。
祖母は寂しそうに台所でサッポロのロング缶を飲んでは、それをグシャッと潰すのだった。美奈にはやさしかったが、セールスとか近隣の人とはよく怒鳴り合っていた。
祖母にはよくパチンコ屋に連れていってもらった。そこには託児所が併設されていて、女性の保育士もいた。帰りには必ずたくさんお菓子を祖母がくれた。母は滅多になにも買ってくれたことはなかった。
美奈の想像する「実家」とは、その程度のものだった。それは都会で生まれ育ったせいではなく、美奈の家庭の問題だった。
絹恵はきっと田舎で恵まれた生活をしていたに違いない。だから、美奈のような者を連れて戻るわけにはいかないのではないか。
「介護だったら、私、資格取ります」と美奈が言ったとき、「だめよ。私の母なのよ」と言われた。奴隷なら、なんでもする。美奈はそのつもりでサインをし同棲したのだ。しかし母親の世話はさせられない。頑なな絹恵は、美奈には理解できなかった。
「ねえ、本当に出て行くの?」

★小説「亜由美」第一部★

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女子大生となったばかりの亜由美。剛介との出会いから、自らのマゾ願望がいっきに開花。理不尽な辱め、処女喪失、輪姦からはじまってタップリ、被虐を味わうことになります。
★小説『亜由美』第二部★

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メス豚女子大生となった亜由美への本格的な調教が繰り広げられます。大学でも便所でも商店街でも……。苦悶と快楽が彼女の日課になっていきます。
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メス豚女子大生・亜由美の完結編。壮絶な輪姦合宿から同じ大学の女子を巻き込んでの拷問実験へ。連載時にはなかったエンディング。

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