物語の物語 視点の自由な移動

こんにちは。あんぷらぐど(荒縄工房)です。「物語の物語」は、SM小説にどっぷり漬かる私が、ほぼ毎日作品を書き続けているときに気づいた、物を語ることの不思議、おもしろさなどを綴っています。
小説を書きたいと思った人が、入門書などを読んでいくうちに、最初の方でぶつかる壁に「視点」があります。多くの先人たちによって、視点についての問題点が指摘されていて、三人称、一人称といったスタイルだけではなく、文中の視点の統一についてもうるさく言われています。
たとえば三人称でも、登場人物の一人に焦点を当てて描くとき、その人物が知り得ない事項についてどう扱うか。どこでどのようなカタチで表現するか。これは工夫のしどころのある点です。ト書きのように神視点で著者(神)が描写してしまうのもありですが、それを避けたい場合もあるでしょうから、そのときの表現でよりおもしろくできる可能性はあります。
一人称で書いてしまうと、その人物が知り得ないことは記述できないので、推測するしかなくなります。これも、表現のしようによってはおもしろくすることができそうです。
文中の視点の移動は、主に三人称のときに混乱が生じやすいと言われています。そしてここに神経を使いすぎることによって、おもしろさが削がれる場合もあります。
いま書いたみたいに、「よりおもしろく表現できるかも」という意味での制約に比べて、文中の視点移動は窮屈に考えると、おもしろさを削いでしまう可能性が高くなります。
あまりに視点の移動を難しく考えすぎてしまうと、どんどん窮屈になっていき、書いていてつまらなくなっていくこともあると思います。
私は以前はすごくこだわっていて、窮屈に考えていましたが、最近はとても緩くとらえるようにしています。要するに読者にわかれば問題ないんじゃないか。
現在連載している「被虐の家」では、三人称のスタイルで、文中の視点はかなり頻繁に移動します。
メインは姉妹(桃江、千絵)ですので、二人の気持ちを描写します。ただ千絵については不思議な存在でいてほしいので、あえて心理的な側面を深く描いていません。外から見える部分を中心にしています。
桃江は夫のこと、自分のこと、妹のことで悩む存在なので、主人公でもあることからそれなりに彼女の視点で描く部分も多くなっていきます。
加えて、彼女たちを好きなようにしたいと思っている河田と淵野。この2人にも視点は移動します。河田から見た姉妹、そして淵野やほかの人たち。淵野から見た姉妹、そして河田といった視点を書き込んでいます。
比較的自由に視点が変わり、それぞれの考えが出てきます。私としては読んでいて混乱しなければ、こうした視点の移動は自由にやってもいいと思っています。
映画でも複数登場人物の場合は、それぞれのアップであるとか、細かいカット割りによってスピーディーに視点を切り替えていくこともあるので、読者もそれを苦にしないのではなかと思っています。
一方、「いいなりドール」は、一人称で主人公の視点のみで描かれるので、兄や家族がどう思っているのか、主人公の推測と見たままの描写になっていきます。
ただ、一人称の場合では、この「見たままの描写」の中に読者にとっては「おや?」と思わせる部分をはさみ込んでみるといったこともします。主人公はそれを見ているけど、スルーしてしまうようなところに、のちに明かされる事態への予感を潜ませて、読者には先に気づいてもらう、といったことです。
視点を自由に移動すると、複数人物の思いのすれ違いを立体的に表現できますが、読者にとってはそれが必ずしも楽しいとは限らないこともあります。
すべてを知ってしまうと、先に対する期待が減る可能性もあるのです。
書く側にとって便利なシステムは、必ずしも読む側にとっておもしろいとは限らないので、自分なりの制約は設けた方がいいかもしれません。
物語は本来、口伝で一人語り、つまりいまの落語のようなもの。そこに語り手の気持ちや解釈が加わって、さらにおもしろさを追求していく世界です。
小説表現の最初は、この口伝を文字で表現するところからはじまったわけで、日記スタイルはいわば書き手による一人称の表現でもあるわけです。そして「私が見聞きしたこと」を書くうちに、そこに登場する人物の気持ちまで推測するようになっていきます。
書き手が自分の感情を、登場する人物に反映させたり、登場人物の気持ちを自分なりに解釈したりしはじめます。さらに、登場人物に憑依していき、自分のことのように語りはじめるのです。
一人語りは視点を変えることがとても難しいものです。落語「芝浜」は酒好きの亭主としっかり者のおかみさんの話。ただ、おかみさんのしっかり度をどの程度描写するかは、語り手しだい。なぜなら最後の部分で、このおかみさんがやっていたことを、どのように表現するかは物語の核となるところだからです。
でも、「芝浜」はあまりにも有名な作品なので、落語ファンはみなそのスジを知っている。核の部分(ミステリーでいえばトリック)を承知の上で、現代に生きる落語家からその話を聞くのです。
このため、むしろおかみさんの心情にぐっと寄って演じることも可能になります。ネタバレしても、感動はあると思うわけです。
酒好きのだらしない亭主という話は、落語にけっこうあるわけで、それが後半に様相が一転していくことが「芝浜」のよさであり、そこでは「笑い」を減らしてまでも人間を描くことに思い切ってシフトした作者の工夫が感じられます。
たとえば「サザエさん」でおもしろおかしいエピソードをやらかしたあと、一人、薄暗い台所で味噌汁を作るサザエさんの後ろ姿をインサートするだけで、そのエピソードの意味は大きく変わります。
視点を変えることによって、意味が変わっていくので、自由に移動してもいいのですが、意味の変化まで意識しておかないと、あとで読者は混乱します。
つまり、自由に視点を移動してもいい。読み手がついてこられる範囲なら。ただし、視点を変えると意味が変わることに無頓着であってはいけないよ、という感じでしょうか。 なお、こうした書き手の気持ちは、かなりの率で失敗(空振り)します。落語でもオチまでいっても「?」となる噺があるのと同じですし、映画でも「このシーン、なに?」となることがあるのと同様です。
ただ、空振りになるかもしれないけど、振り続けなければならない。それが表現者の宿命というか業なんだろうな、と思っています。
(協力:エピキュリアン ガスマスク イスラエルタイプ)

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