隣の肉便器さん 30 じゃ、拷問中ってことで
「やってください」
「待って」
ナポリンには僕たち夫婦のことには立ち入ってほしくない、とその瞬間強く思った。
あの人ならこう叫ぶに違いない。
「なんて日だ!」
僕と美希の間に起きたはじめての事態。
分裂。仲間割れ。反抗。無視。そして離婚。ここからは、お互い別の道を歩きましょう的な事態。
だいたい、すでになってるじゃん! 美希はいま別の道に行きかけてるじゃん!
僕も行くよ、そっちに。行きたいよ。誰か、そうオサムがいたら、彼がナポリンのまんこを破壊するだろうし、その行為を僕と美希はコーヒーを飲みながら遠くから見ていればいい。
舞台に上がるのと、客席で見るのとでは大違いなんだから。
僕だけ舞台に上げるなよ。
それって……。
「敵前逃亡だ」
「え? なんか言った?」
美希はようやくカップを離した。ほとんど飲んで空になっているのだ。それでも僕と話をしたくなくて、カップを口につけていたのだ。
「敵前逃亡だ」
大事なことだからもう一度言う。
「なによそれ」
「美希だけ、そうしているのって、敵の陣地に総攻撃してバタバタと倒れていく若者を見ながら、ビスケットを囓ってお茶を飲むナチスの将校みたいな態度じゃないか」
まったくの想像による妄言である。僕はナチスの将校のことなんて大して知りもしないのだ。映画「イングロリアス・バスターズ」で見た程度のことしか知らない。ああ、この映画のタイトルはまさに僕たちにも当てはまりそうだな。不まじめで恥ずべき野郎ども。野郎は僕しかいないけど、ペニバンでナポリンを犯す悦びを知った美希も、野郎みたいなものだ。
そうだ! いまさら、素知らぬふりなんてできないんだぞ!
「意味、わかんない」
一緒に見たじゃないか。153分もある映画なら最初からそう言ってよね、だって僕だって知らなかったし、メチャ長いじゃん、終わったと思ったらまだ続くし、だけどハラハラドキドキですごかったよ、すごかったけど3時間も映画館にいるなんて……。
そういえば、あの頃だって、これに似たことはあったんだな。
ちょくちょく、やらかしているんだ、僕と美希は。
「んんんんん」
なにかナポリンがわめいているけど、いまはそれどころじゃない。僕と美希の問題。
ナポリンはしっかり磔にされているので、なんの心配もない。
磔にされて顔にマスクをつけられて、なにもされないばかりか、夫婦ゲンカっぽい音声が聞こえるって、まさに拷問だよね。
たぶん。
じゃ、拷問中ってことで。
「やらない方がいいかな」
「そういうんじゃなくて……」
美希はすねるようにカップを洗いはじめる。人の家のキッチンなのだが、同じマンションで同じ間取りの相似形だからか、まったく違和感というものがない。
自分たちの部屋じゃないかと錯覚するほどだ。玄関の向きがなぜ違うんだ、と驚くぐらい。
「じゃさ、どうすればいいの?」
「やればいいじゃない。ナポリンのまんこをぶちたいんでしょ」
「いやいやいやいやいやいや」
そもそも、これはナポリンが言い出したことで、僕じゃない。僕はナポリンと浮気しているのでもないし。
まんこを本気でぶちのめしたいと思っているわけでもないのだから。
男ってそうなんでしょ、どうせ暴力なんでしょ的なやつか?
男だからこう、女だからこうって決めつけは21世紀になってから先進国ではやめようぜってことになっていたんじゃなかった?
まいったな。萎える。
いや、萎えるとか言うと、それが精神的な退潮のことではなく、チンポのことだと解釈されるからオスには不利な表現じゃないか。
広報をやっていると、差別発言だとか炎上だとかLGBTとか権利とか少数派とかジェンダーとかいろんなことに気を使う世界なんだけど、ここは僕と美希とナポリンのプライベートな空間で、しかもナポリンは「自分のまんこをぶちのめして」と熱望している肉便器さんなんだぞ。
正直、隣りにたまたま越してきた、キュートだけど肉便器な女子によって僕と美希の間に亀裂が入るとしたら、そんなことは許せない。
ただ、それを口で説明しようとしたら、ナポリンを悲しませるだけだから、僕にはできないけど。
ええぃ! じゃあ、どうすればいいんだ。なにが正解なんだ。
オサムはこんな疑問にとっくに正解を出していたのではないだろうか。
なんとかしてくれ、オサム! ナポリンにはあなたが必要。
ゾッとしたのだが、もしオサムが悪いことをしたりスパイだったりヤバイ人だったりして永遠に帰国しない、すでに死んでいるなんてことになったらどうしよう……。
旅の間だけ、ちょっとお借りしていたものを、一生面倒を見るなんてことになるとしたら?
ナポリンがいる生活……。
つい数時間前には、素敵だと思ったのに。
いまは地獄。
毎日、帰宅すると美希がミキリンになっていて「おかえりー」と言いながら「ご飯にする? お風呂にする? それとも拷問にする?」とか聞かれて、風呂の前にナポリンを拷問にかけたりする生活なんて……。風呂上がりにビールを飲みながらテレビをみながら、ミキリンがナポリンを拷問しているのを横目でチラッと見たりして「手ぬるいな」とかつぶやくような生活。
ボロボロになっていくナポリンを、だけど自殺させないようにいたぶり続ける生活って、いったいなんだろう。
それに慣れきってしまった自分はなんだろう。
「やめようか?」
美希に声をかけた。
「んん?」
「もうやめにしようか。ナポリンを解放して、僕たちは自分の部屋に戻る。前と同じ生活に戻る。僕たちはお隣さんにはいっさい、関わらない」
今度は美希がため息をついた。
「試しに、いま、部屋に行ってみない?」
「いいよ」
僕と美希はナポリンを放り出して、外に出た。
外は真っ暗だった。
いまが何時かもわからない。寝なくちゃ。風呂に入らなくちゃ。ニュースをチェックしなくちゃ。溜ったメールやメッセージをさばかなきゃ。仕事しなくちゃ。会社行かないと……。
ぶわっと日常が僕を囲んだ。
部屋に戻り、電気をつけて、テレビを見て。
「戻れるわけないわよね」
美希がつぶやく。

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OLが自虐の果てに見たものとは? ブログ連載を加筆修正の上、未公開の原稿を追加しました。主人公は壮絶な自虐癖から拷問ののちに人間ですらなくなっていく……。
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OLが拷問地獄に堕ちる『堕ちる』の別バージョン(「小説『堕ちる』特別編」の続編ではありません)。初出時にあまりの描写に小説掲示板から削除されてしまった部分などを復活。お読みになる前に「体験版」などにある「ご注意」をご確認ください。

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