奈々恵の百日 16 第四話 絶望試験 その4 チャンス
はじめてブタ三号の飼い主様たちにお会いしたときには、いまは抜け落ちてどこかへ消えてしまった奈々恵が、あふれかえり、とても飼い主様たちには手に負えないと映ったに違いありません。あの頃はまだ人で、妻だった過去を引きずった奈々恵だったのですから。
鏡を見ることは、これからは減るでしょう。ですが、頭の中に、ブタ四号としてのイメージはくっきりと残っています。紛れもなく美和さんの描くキャラクターとして。
母屋に戻るまで、一歩一歩踏み出すたびに全身に痛みが走ります。肛門がどうとか、乳房がどうとかではありません。茨の道、針のむしろ、針山地獄、なんと呼んでも構いません。これからは、鳥のササミを細かく引き裂くように、自分自身を引き裂きながら進むのです。
それが悦びなのです。
ほがらかな笑い声が響く家に入ると、そこはムッとするほど暖かく、さまざまなニオイで満ちていました。
「ブタが来たぞ」
酷い言葉を投げかけられても、笑顔。
「笑ってやがる」
「見ろ、あのオッパイ。根性焼きだらけだ」
「そのうち穴が開いて腐って落ちるぞ」
私も同じことを考えていました。たわわに実って食べ頃を逃し、鳥や虫に喰い漁られやがて腐って泥の上に落ちるのです。
「大丈夫よ。ああ見えてもけっこう回復力があるのよ」
多美の無責任な言葉を笑顔で受けます。
ブタになって笑顔を覚え、それがこれほど悲しく同時に楽だと気付きました。この笑顔は仮面でもあり、抜け落ちて失った奈々恵のふりをして意思のようなものを誰かに伝える必要もなくなった私には、心地良いのです。
「おまえも喰え」
男たちは、薄汚れたプラスチックの洗面器を指差します。
土間に置かれたそれは、得たいの知れないものが山のように盛られています。
「全部、食べるのよ、ブタなんだから」
美和さんの声に魂が震えます。
「ありがとうございます。いただきます」
土間に這いつくばって、すりむけた膝の痛みにワナワナと震えながらも、手を使うことなく洗面器に顔をつけていくのです。
腐臭ではありません。それがなにかは、最初はわかりませんでした。口の中に入ってから気付いたのです。人の食べ物として、煮たり焼いたり揚げた肉や野菜に混じって、苦くて臭いものがいっぱい入っています。
みんなが見ているのを感じながら、それを食べていくのです。
半分もいかないうちに満腹になって、それ以上は食べられなくなりましたが、ブタですからそもそも浅ましく底なしに食べなければなりません。
およそ二キロほどもある洗面器の中の食べ物をすっかり飲み込むまで、かなりの時間をかけましたが、ようやくきれいに洗面器を舐めまわしました。
「喉も渇いたろ」
男たちは洗面器におし○こをします。
笑顔。
「いただきます」
飲み干します。嘔吐したくなっても、ねじ伏せます。まだ奈々恵が少し残っていたのでしょうか。この程度のことで嘔吐などするはずがありません。ブタにはちょうどいい量なのです。
「休んでいいぞ」
「ありがとうございます」
薄い布団にくるまって、部屋の隅で寝ます。喉から胃までパンパンに膨らんでいる体も、横になっているとかなり楽で、食べてすぐ寝れば太るという話があったと思いますけど、これこそブタ四号にとって当たり前の日常になっていくのです。
目が醒めたときに、この体が少しは回復していますように。そして、新たな苦痛を悦びとともに受けることができますように。
なにも考えず、夢も見ず。ブタとして寝ることも新たな日常なのです。
ふと気がつくと、部屋は暗く、小さな窓からぼんやりとした青白い光が入ってきて、誰もいないことがわかりました。
美和さんも帰ったのでしょうか。
気付けば、首輪に頑丈な鎖がつけられ、それは手首の枷、足首の枷を通って、壁の環につながれ、大きな南京錠がかかっていました。
体を伸ばすこと、四つん這いになることはできますが、立ち上がることはできません。お尻の中にはあの尻尾が埋め込まれています。
誰かが来なければ、このまま本当に朽ち果てるのでしょう。
「見ろよ、この死体。笑ってるぜ」
「よっぽど幸せだったんだろう」
私の死体を見つけて、誰かがそう言ってくれるでしょうか。
朝が来ること、誰かが来ることをこれほど望んだことはありません。汚れた洗面器に誰かの残したおし○こがたっぷり入っています。与えられたのはそれだけです。
人恋しくて、それほど喉は渇いていませんが、舐めてみます。鎖がジャラジャラと音を立てます。誰もいないのに、その音が静寂を破ることに抵抗があります。
少し飲んで、むせます。おいしいとは思えません。だけど、誰もいなくても笑顔になって「おいしい」と言ってみます。次はごくりと飲んでみます。潰された鼻が水面に入ってしまい、ツンとアンモニアの刺激を感じて、それがすでに古いのだとわかります。でも、口いっぱいに入れて味わってから、ゴクリと喉を通っていきます。
「はあっ、おいしい」
笑顔になっています。さきほどよりはおいしいと思えてしまう。
尿意がし、洗面器の上に体をずらしていき、そこに自らチョロチョロと排泄をしてみました。
誰かのものだけではなく、自分のものも飲んでみるのです。体温で湯気の出たそれが混じると、さらにおいしく思えたのです。ゴクゴクと飲んでいました。
窓が白くなり、弱い光が殺伐とした部屋を照らすようになっても誰も来ません。
手の届かないところに美和さんたちが置いていった鏡。
私はその中で笑顔です。
誰か来てほしい。待ち続けます。
室温が上がり、洗面器から汚水のニオイが立ちのぼっていきます。今日は昨日より暑いようです。もうすぐ七月。離婚後百日経てば、ブタ三号との婚姻が許されるかもしれません。
裸でいても汗ばむほど暑くなってきた頃、外に車が停まる音がしました。ドアの音。足音。なにを言っているのかわかりませんが、男女の声。
犬なら尻尾を振ったり吠えたりしているに違いありません。そう、尻尾。
慌ててお尻へ手を伸ばし、かなり窮屈でしたが肛門に指を入れてスイッチを押しました。空気が抜けていきます。
入り口の戸の錠が外される音。
もう一度、鏡の中の自分を見ます。笑顔。ブタ四号のタトゥー。期待に満ちた視線。
ガラッと戸が開き、「いたいた」と声がしました。
病院以来の中麦、室尾、三田。そしてブタ三号とその飼い主様たち。
「臭いな」
彼らは窓を開けて、戸口も開けたままにしています。
南風がとても暖かいのです。
「生きてるね」
室尾が笑っているのは、私が笑顔だからでしょう。私が笑えばみんな笑ってくれる。笑いながら、私をいたぶってくれるのです。
鎖を外されて、手の合図だけで促され、四つん這いのまま土間に降ります。首と手足の枷はそのままで、かなりの重さを感じます。ようやく空気が抜けきって、尻尾がだらーっと垂れ下がります。腸液も土間を汚します。
「最後のチャンスをいただけるそうだ」
「最後?」
思わず言葉が出ていました。お尻を振って、尻尾を揺らします。

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